SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS ANNEX

SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS 別館


さる方と対話で「読み」というか、「読むこと」みたいな話題が。


ブログなんかもそうだけど、読み手が書き手の意図を超えてテクストを読んでしまうっていう話。

要は読書論・読者論なんだけど、ただ、ブログや掲示板、右や左巻いた話などで最近とみに気になるよねぇって話題になった。

何で「そこ」だけ取り上げて全くそのテクストから乖離した話しにもって行き、その人なりをコテンパンに叩くのかって、よく見かけません?と聞けば、そもそもネットだけの話ではないし、大学生を教えている人に言わせると、学生にレポートなりやらせると、叩きはしないが、同じように自分の脳内ですでにある価値基準、「1か0か」「敵か味方か」でテクストなり物事を捉えてレポート書いてしまうらしい。

そういえば、ここ2〜3年、ウチに入ってきたマスター連中も割りとそんな属性があるやつ多いかもと。

価値基準を持っているのは良いことなのかもしれないが、なんでそんな単純なのかって。

わかりやすいのかもしれないが、この「わかりやすさ」って危ういでしょ?

2項対立でしか判断できないってどうよ?ってな話に。

レッテル貼り好きだしね。自分の気に入らないのを「サヨ」とか「ウヨ」「テロリスト」なんかで括れば楽だもんね。あと「反日」とか「抵抗勢力」ってのもあるか。

そんで、右・左の論争ってよく見かけるけど、言説空間を巡る話って、実際はヘゲモニー争いであって、その個々の議論なり「事実」の中身っていうのは実を言うとそんなに問題ではない。

一方の立場を取るという主張は、実は何でそいつがその立場を取るのか、それによって何を狙うのかを見たほうがいい。

ほんとの所は力関係、その「場」で力を持つ立場につきたいっていうのがあるんじゃないのと。


読みの話に戻すと、物語っていうのは、まぁ自由な読みが結構許される世界だと思うけど、論文や研究書とかはまずいよね。「論理」によって読んでくれないと。これは書き手にも問題があることも多いのかもしれないが。



あと、60近い先生方の学生時代の逸話について色々話す。

この世代ともっと前の世代(今70・80歳代くらい)の話を聞くのが楽しい。

正直言って、40代くらいの先生方の話ってあんまり面白くない。


で、60近い先生方ってつまり1960年代に大学生だった人たちなわけで。学生運動世代。

面白かったのが、某大の場合、学年ごとで立ち位置が変わるっていうこと。

O先生は社会党、1コ下のF先生は民青、その下のK先生は革マル中核?だったかな?と。

あの時代に社会党って言えたのはかなり勇気があるんじゃないの?などとも。


ついでに、別の先生が実は共産党の某書記長と同級生で友達とは知らなんだ。
この世代になると、学生運動で「自分達の世代」を語れなくなるんだよなぁと。


あと、これより上の世代のG先生がブントだったとか、入学式出ないでキャンパスをウロウロしてたら先輩に捕まって、気がついたら国会議事堂の前で岸首相へのデモをやらされてたとか、岸を罵る歌があるとか、面白かった。

それから安田講堂の話も面白かった。


今年辺りから、左翼運動を回顧する記事なり本なり出てきているのは、この世代がだんだん定年で辞めていくからだとか。


この世代の先生方が辞める時に、色々あの頃のことをインタヴューしたら面白そうだとか。

学生運動が失敗したことに対してどう思っているのか、とか。
はっきりいってここでの失敗が今に至る管理社会へと持っていかれる最大の原因だと思うんで。

ある意味A級戦犯だよね。

でも仮にあそこで上手く軟着陸できたとして、マッチョな左が闊歩する世の中っていうのもゾッとするかも。
無論マッチョな右も論外だが。


それからやっぱり西洋史研究の問題。

日本で西洋史をやる意義って…てやつ。

極論しちゃうと、日本人がやる必要は無い、外国から学者呼んで来ればいい。
あるいは、欧米の学会で発表をし、欧米の学術雑誌に投稿する、海外でやりあうことに特化した研究者と日本人向けに知を還元することに特化した研究者に分かれるのか。いわゆる、「ハードアカデミズム」「ソフトアカデミズム」ってやつ。

でも、実を言うと、これって今大学にポスト持っている先生方が使い分けている話なんだよねと。
院生には、海外レベルを要求し、あちらと同じようなトレーニングをする。
一方で、自分達には、日本人ならではの西洋史みたいな話をするっていう。

で、「日本ならではの西洋史研究」っていう人が、自分の後任に、日本でしかキャリア積んでいない人と海外でしかキャリア積んでいない人を取るとしたらどっちを取るか?

海外でキャリア積んだ人を取ると、あっちの研究者呼んだりできるから取るなんていうのも言われるが、つまるところ、あちこちからお金貰えるからってことを言っていると。

もう一つ思うのが、日本史の研究者が英語などで海外の雑誌に投稿するとか欧米で発表するっていうのもある。
欧米では、深化した「比較史」というのが求められてきていて、中世史でも、日本の中世のことをあっちの連中は凄い知りたがっている。
僕らみたいな日本人の西洋史研究者よりも、日本人の日本史研究者とずっと交流持ちたがってたりする。
そうすると、ほんと日本人の西洋史研究者って…てな具合になるよねと。


そんで学者の共同研究なんかの話。

大学は今やすっかりネオ・リベ状態。
学内で勝ち組・負け組み作る方向。

学外の研究助成貰えないヤツには学内の助成もやらない。

で、ある程度肩書きと実績があるとなんか助成通ったりして、通ってからさて、どうすっかみたいなことがよくあると。
そんなわけで、つまみ食い的研究が多々出てきて食い散らかされる。

結局「学」としてのレヴェルが低くなっているという罠。

でも欧米も似たり寄ったりで、研究者会議たくさんやっているけど、そんなにレヴェル低いやつなんてあんまりないようなって話しに。
で、思うに、読者層の広さによるのでは?と。
こちらの研究者会議やると、わりと顔の見える範囲内を意識してやってればいいようなところがある。日本語で書いているし。
けど、あちらだと、研究者はそれこそヨーロッパ、アメリカに始まり、世界中に読者がいる。その辺のプレッシャーが違うのではないかとも。
しかし、日本史の場合、研究者‐読者層はかなりいるわけで。そうするとこの説は成り立たない。
研究者の質というか意識の問題?

じゃ、西洋史の場合、欧語と邦語で書けばいいのかっていうのもどうなん?ってなったり。