SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS ANNEX

SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS 別館

バイナム関連人名メモ


バイナムに出てくる「聖女」さまを特にフューチャー。



ビンゲンのヒルデガルト(Hildegard von Bingen ; 1098 - 1179)
プファルツのアルツァイAlzey近郊、貴族ベルマースハイムのヒルデベルトHildebert von Bermersheimの10人兄弟の末娘。幼くして幻視。8歳でディジボーデンベルクDisibodenberg修道院に入る(散居修道制?)。かなり高度な文化水準を持った修道院で、手の労働からラテン語、聖書の知識、医学知識、音楽など、様々な教育を受ける。1136年からクラウゼ(散居型女子修房)の指導者。幻視の書『スキヴィアス』Scivias(1141‐1151年)によって教皇からクレルヴォーのベルナールまでもが絶賛、執筆を認可される。1148年に啓示を受け、1150年にビンゲンのルーペルツベルクRupertsberg山に修道院を設立。フリードリヒ1世に書簡を送るなど、聖俗の政治問題にも関与。巡歴説教。「キリストの花嫁の神秘主義」。神との神秘的合一無し。エクスタシーも無し。苦行も無し。シェーナウのエリーザベトは霊的娘。
他の著作に、『生活の功徳』Liber vitae meritorum(1158‐1163年)、『神の御業』Liber divinorum operum(1163‐1173/74年)、『自然論』Physica(1151‐1158年)、『病因と治癒』Causae et curae(1151‐1158年)、『諸徳の劇』Ordo virtutum(1150年代)など神学、博物学、宗教劇など著作多数。
祝日9月17日。


シェーナウのエリーザベト(Elizabeth von Schönau ; 1126 - 1164)
ドイツ、ボン近郊のベネディクト会修道院で12歳から養育。1147年に入会。幻視。預言。兄弟で修道院長であるエクベルトの助力で、3巻の著作。1157年からシェーナウの女子修道院長。
未列聖。祝日6月18日。


クリスティーネ・エーブナー(Christine Ebner ; 1277 - 1356)
ニュルンベルク都市貴族の名門、エーブナー家出身。幼少の頃より信心篤く、11歳でドミニコ会エンゲルタール修道院(1240年にベギン、1244年からドミニコ会)に入る。1345年には女子修道院長。バイエルン公ルートヴィヒ4世とアヴィニョン教皇ヨハネス22世の対立の際、ルートヴィヒを非難。カール4世即位後、カールを支持、1350年には彼女の祝福を受けるべく、カールがエンゲルタールを来訪。クリスティーネはエックハルトの流れを汲む「神の友」の中心人物であったネルトリンゲンのハインリッヒを介して同時代のタウラーの思想に親しむ。40歳頃、自身の神秘体験を聴罪司祭であったフュッセンのコンラートKonrad von Fussenに報告。『溢れる恩寵の書』Büchein von der genaden uberlast。感性と幻視の奔流による生き生きとした幻視体験の記録。



マクデブルクのメヒティルト(Mechthild von Magdeburg ; v . 1207 - 1282 / 1294)
中世を代表する女性神秘科家の一人。生涯の詳細は不明。ハッケボルンのメヒティルト 、大ゲルトルート といったシトー会修道女の証言のみ。マクデブルク教区の貴族家系出身。宮廷風教育を受けて成長。ラテン語素養は皆無。12歳で聖霊の声を聞く。1230年頃、家を出てベギンとして生活。マクデブルクのベギンはドミニコ会の指導下。ドミニコ会士、ハレのハインリッヒHeinrich von Halleが1250年頃からメヒティルトに霊的体験を書くよう促す。1260年以降、ヘルフタHelfta のシトー会女子修道院に入会。観想生活。晩年は盲目。
『神性の流れる光』Das fliesende Licht der Gottheitの北方の中高ドイツ語で書かれた版は散逸。高地ドイツ語版は1343‐1345年に、タウラーの弟子、在俗聖職者のネルトリンゲンのハインリッヒHeinrich von Nördlingenの薦めで恐らくバーゼルの「神の友」Gottesfreunde と呼ばれる聖職者達のために書かれた。アインジーデルンEinsiedeln 277にほぼ完全な写本。原本に限りなく近い。メヒチルドの死後に編まれたらしい。作風は「霊的な愛の抒情詩」と形容されるほど、「雅歌」、ミンネザンクを想起させるスタイル。


ハッケボルンのメヒティルト(Mechtilde von Hackeborn;1241 / 42 - 1298 / 99)
ヘルフタ女子修道院長ハッケボルンのゲルトルート(Gertrude von Hackeborn ; 1231 - 1291)の妹。ホーエンシュタウフェン家と姻戚関係を持つ家系。7歳で両親の反対を押し切りローダースドルフの女子修道院(後のヘルフタ)に入る。大ゲルトルートの教育係。主著『特別な恩寵の書』Liber specialis gratiae(1290 - 1298 / 99)。全7巻。メヒティルトが親しくしていたある修道女に語っていた自身の体験を、彼女の知らない間に書き留められて作られたもの(1‐4巻まで)。ジャンルとしては聖人伝の一種、修道女伝。姉のゲルトルートの生涯についても書かれている。また幻視文学でもある。聖心崇敬。


大ゲルトルート(Gertrude die Große /Gertrude von Helfta ; 1256 - 1301 / 02)
出自などの委細不明。1261年にヘルフタに預けられる。才知にあふれ自由学芸を学び、ラテン語能力高い。1280年頃に神秘体験。以後神学に集中。恐らくマクデブルクのメヒティルト、当時の女子修道院長ハッケボルンのゲルトルート、彼女の妹ハッケボルンのメヒティルトの影響強い。聖心崇敬。主著『神の愛の使者』Legatus divinae pietatis (1289 - 1301 / 02)。マリア恭順の道を説く。16世紀以降、彼女の作品は広く世に知られ、聖心に関する神秘神学形成に多大な貢献。


ヘルフタ修道院 Helfta
ザクセンのアイスレーベンEisleben近郊にあったシトー会系女子修道院。マクデブルクのメヒティルト、ハッケボルンのメヒティルト、大ゲルトルートと13世紀の著名な女性神秘家を輩出した修道院として有名。1229年、マンスフェルト伯ブルヒャルト(Burchard I , Graf von Mansfeld ; m . 1229)とその夫人エリーザベト(Elizabeth von Schwarzburg ; m . 1240)がハルバーシュタットにある聖ヤコブ修道院の分院として、伯の城の近くに女子修道院を創設したのが始まり。ハルバーシュタットのシトー会分院。5年後ローダースドルフRodarsdorfに移転、深刻な水不足から1258年ヘルペデHelpede(現ヘルフタ)に移転。マクデブルク大司教、マンスフェルト伯列席の元同年修道院は聖別。シトー会系でありながら、その霊的指導はドミニコ会が担っていた可能性が高いとされる。ヘルフタの女子修道院長はハッケボルン家とマンスフェルト伯家出身者が多い。マクデブルク大司教、ハルバーシュタット司教座聖堂参事会員等にも血縁者多い。


モントーのドロテーア(Dorothea von Montau ; Dorothea Swartz ; Dorthea von Montau ; 1347 - 1394)
農民家系。ドイツ騎士団所領モントー。9人兄弟。17歳でプラハのアダルベルト(アルブレヒト)という富裕な刀鍛冶職人と結婚。9人の子をもうけるが生き残ったのは一人。ベネディクト会修道女となる。結婚の困難:夫の浪費に悩まされる。1389年ローマ巡礼。その間夫が死去。寡婦になり、マリエンヴェルザーMarienwerser で修道女に。聖体への信心。
中央ヨーロッパで広く崇敬されるも未列聖。祝日10月30日。


エルスベト・アシュレー(Elsbet Achler ; Betha the Good ; Betha von Reute ; Elisabeth Acheer; Elisabeth Achlin ; Elisabeth Bona von Reute ; Elisabeth den Gode ; Elisabeth the Good ; Elizabeth Acheer ; Elizabeth of Reute ; Elizabeth the Good ; Elizabeth the Recluse ; Elsbeth Achler ; Elsbeth Achlin ; Elsbeth von Reute ; 1386 - 1420)
シュヴァーベンのヴュルテンベルクWürttemberg、Waldsee出身。4歳でフランシスコ会第3会に入会。しかし両親の下で生活するも困難に。17歳でロイテ Reute の修道院に入る。エクスタシー。天国・、煉獄・地獄の幻視。スティグマ。金曜と四旬節中に流血。拒食。ロイテReuteで死去。1766年教皇クレメンス13世により列福。祝日11月25日。


スウェーデンのビルギッタ(Birgitta av Sverige ; 1307 - 1373)
ストックホルム北ウプランドUpplandの法務官ビルイェル・ペルション(Birger Persson ; v . 1265 - 1327)とフォルクング王家系インゲボリ・ベンツドッテル(Ingeborg Bengtsdotter ; m . 1314)の娘。13歳で結婚、8人の子を持つ。フォルクング朝最後の王マグヌス7世エリクション(Magnus VII Eriksson ; 1316 - 1374 ; スウェーデン王1319 - 64 ; ノルウェー王1319 - 55 , 71 - 74)は従姉弟で彼の相談役を務める。王妃ナミュールのブランシュ(Blalnche de Namur)の教育係。夫の死後、幻視者・預言者として精力的に活動。ビルギッタ会(Ord sancti salvatoris , 1370年教皇認可、1378年全承認;救世主会)という女子修道会創設に尽力。ビルギッタ会母修道院ヴァドステナVadstenaはマグヌス7世による寄進。自身は一介の俗人のまま。シエナのカテリーナと並ぶ14世紀を代表する女性神秘家。7歳で最初の幻視。1342年、夫共にサンティアゴ巡礼、帰路1344年、アルヴァストラAlvastraのシトー修道院で夫死去。以後幻視体験復活。女子修道院創設の啓示。旺盛な巡礼熱で、サンティアゴの他にローマ、イェルサレムにまで赴く。ビルギッタ会は既存の女子修道院とは大きく異なり、女子修道院長の自由裁量権が大きく、修道士、助祭、司祭にまで権限が及ぶ。アルヴァストラのシトー会が男子と女子修道院が近接していたことに想を得たらしい。『天使の説教』Sermo angelicas , 1354、『啓示』Revelationesなどの著作は広く読まれ、マージェリー・ケンプやノリッジのジュリアンなどにも影響。聖母マリアを讃え、愛と謙遜を説くと同時に活発な活動、慈愛と厳格さを併せ持つ。百年戦争を預言。ローマで死去。1391年ボニファティウス9世により列聖。祝日は7月23日。


スウェーデンのカタリナ (Catherine av Sverige ; v . 1331 - 1381)
福者スウェーデンの聖ビルギッタ と騎士(法務官)ウルフ・グドマルションUlf Gudmarssonの娘。騎士エッガルト・ファン・キレンEggard van Kyrenと結婚するも19歳で寡婦。1350年の聖年の年、母と合流するべくローマへ巡礼。1373年に孤独の身となる。母ビルギッタの遺業を継ぐべくローマ、スウェーデンで精力的に活動。母の移葬、列聖申請等をこなし、さらにビルギッタ会に尽力。初代女子修道院長。対立教皇クレメンス7世に対するウルバヌス6世を支持。49歳で死去。16世紀にスウェーデンがローマとの関係を絶ったために列聖申請は中断。霊的著作Siœlinna thröstを残す。祝日は3月24日。


ハデウェイヒ(Hadewijch ; 13e siècle)
1220年‐1240年頃に活躍したネーデルラントの女性神秘詩人。姓、生没年不詳。教養と神学用語の使い方などから恐らくアントウェルペンの貴族家系。書簡から推測するに、恐らくベギンの指導者。文筆活動は1240年前後。 『幻視』Visionen 、『霊的抒情詩』Strofische Gedichten、『詩文集』Mengeldichtenなど、いずれもフラマン語ブラバント方言で書かれている。ラテン語、フランス語、修辞学、数秘学、天文学音楽理論、韻律法に通じ、トルヴェールの技法と主題にも精通。愛の神秘主義。ギョーム・ド・サン=ティエリの影響。理解者に恵まれず、指導していたベギン共同体も追放、癩施療院か施療院で活動。14世紀の神秘思想家ルースブルーク(Jan van Ruusbroec ; 1293 - 1381)が影響を受ける。


ワニーのマリ(Marie d' Oignies ; 1177 - 1213)
ベルギー、ニヴェルNivellesの富裕商人家系出身。ベギンの先駆者。14歳で結婚。純潔結婚生活送る。後ワニーのサン=ニコラ修道院の傍で隠修女的生活送る。13世紀前半を代表する説教師、ジャック・ド・ヴィトリの霊的指導者。激しい苦行と数々の神秘体験。


スハルビークのアリス(Alice van Schaerbeeke ; ? - 1250)
7歳でブリュッセル近郊ラ・カンブルLa Cambreのシトー会に入る。癩病。幻視。断食。晩年は盲目と四肢の麻痺。慈善。


ナザレトのベアトレイス(Beatreice van Nazareth ; v . 1200 - 1268)
ルーヴァン近郊ティーネンTienen生まれ。6人兄弟の末。7歳で母死亡、ズートレーヴZoutleeuwのベギンに預けられ、ここで自由学芸学ぶ。フロリヴァルFlorival(またはBloemendaal)のシトーに入会。10歳で奉献の子。ラ・ラメLa Raméeのシトー会と?がり有り、ニヴェルのイダと親交。イダとの出会いから霊的目覚め。写字生。1221‐1236年間日記つける(紛失)。1235年リエLier近郊ナザレトに修道院新設、翌年転院。1237年から副院長。『愛の7段階』Sevene Manieren van Minneを書く。祈りと瞑想。聖体崇敬。


「驚異の」クリスティーナ(Christina Mirabilis ; 1150 - 1224)
シント=トルイデンSint - Truiden (Saint - Trond) のクリスティーナ。ベルギー、リエージュ教区ブルステム Brusthem の農民の子。Mirabilisと呼ばれる。3度死ぬ。3人姉妹の末娘。幼くして孤児。21歳の時、病に罹り死んだと思われ埋葬されるが復活、教会の屋根まで飛び上がる。地獄・煉獄・天国を見てきたと言い、煉獄の魂を救うためにこの世に戻ってきたと言う。復活後、樹上生活送ったりと奇行が続くため、家族・近隣の住人から悪魔憑きと思われ地下牢で鎖で監禁されるも効果なし。拒食、乳から甘い蜜や油。川を凍らせたり、パン焼き竈に入って自らを火に曝す、沸騰した大釜に身を投げる、水車の回転に沿って水に浸かる、絞首台で2日間自ら首をつる、夜中に起きて犬を吠えさせながら町を駆け抜ける、祈りをすると、四肢が球体になり空中浮揚など奇行のオンパレード。予言。ブラバンのシント=トルイデンにあるシント・カタリーナ修道院に入る。ルーズ伯Loozルイの助言者。ワニーのマリも彼女を知っていたし、アイヴィエールのルトガルトは友人。
列福。祝日7月24日。


アイヴィエールのルトガルト(Lutgart d' Aywières ; 1182 - 1246)
オランダ、リンブルクLimburgのトンヘレンTongeren生まれ。12才の時、事業の失敗で婚資を失ったためシント=トルイデン近郊のベネディクト会修道院に入れられる。10代で幻視。1194年、20歳の時誓願。エクスタシー。浮揚。流血。驚異のクリスティーナの助言により、1208年、ブリュッセル近郊、アイウィエールのシトー会に入会。治癒と予言。晩年11年間盲目。ジャック・ド・ヴィトリは知人。
祝日6月16日。


ルーヴァンのイダ(Ida de Louvain ; m . v . 1300)
メクリンMechlin(またはMalines)近郊ローゼンダールRoosendaal(またはVal - des - Roses)のシトー会修道女。富裕市民。貪欲な父に悩まされる。幻視。スティグマ。目から光。聖体崇敬。説教好き。祈り・断食少ない。祝日4月13日。


オーステンのゲルトルート(Gertrude van Oosten ; m . 1358)
オランダ、デルフトの侍女。婚約するも破棄。デルフトのベギンに。スティグマ。祝日1月6日。


スヒーダムのリドヴィナ(Lidwina van Schiedam ; Lidwid ; Lidwina ; Lijdwine ; Lydwid ; 1380 - 1433)
オランダ、シーダムの貧乏貴族家系。16歳の時スケート事故で負傷。肋骨を折り、壊死し始める。数十年に渡り麻痺に苦しむ。祈りと瞑想。聖体崇敬。エクスタシー。天国と煉獄の幻視。拒食。晩年の19年間聖体のみ。晩年の7年間は盲目。トマス・ア・ケンピスによって伝記。
1890年教皇レオ13世により列聖。祝日4月14日。


クドのアルパイ(Alpaïs de Cudot ; m . 1211)
フランス、サンス教区クド Cudot の貧農家系。若くして癩病に犯され寝たきりに。晩年四肢が麻痺。聖性と悔悛で名声。断食。彼女が寝たままでミサに与れるように特別な窓のついた小屋の隣に教会が建立。フランス王妃アデラの助言者。死の間際、マリアによって病が治癒。
1874年教皇ピウス9世により列福。祝日11月3日。


マルセイユのドゥスリーヌ(Douceline de Marseilles ; v . 1215 - 1274)
プロヴァンス、ディーニュDigneの富裕家系。1230年に母親死亡。イェーレHyeresに移住。兄ユーグ・ド・ディーニュHugue de Digneは有名なフランシスコ会士。貧者・病人の世話。フランシスコ崇敬。フランシスコ会聖霊派の影響。1241年頃イェーレにベギン創設、1250年頃マルセイユにも。死ぬまでマルセイユに。


ワンのマルグリット(Marguerite d'Oingt ; v . 1240 - 1311)
ボージョレBeaujolaisの貴族家系。1268年以前にリヨン近郊ポルタンPoleteinsのシャルトルーズ会に入る。1288年には女子修道院長。幻視。著作『瞑想の書』Pagina meditationum(1286年、ラテン語)、『鏡』(1294年、最古のフランコ=プロヴァンサル語)『聖なる乙女オルナシューのベアトリス伝』Li vita seiti Biatrix virgina de Ornaciu(1303‐1306年頃、フランコ=プロヴァンサル)。シャルトルーズ会で唯一の女性著述家。フランチェスコ崇敬。


ヴィテルボのローサ(Rosa da Viterbo ; 1234 - 1252)
フランシスコ会第3会。3歳で死者を蘇らせる。10歳にして通りで説教。数少ない俗人女性説教者。1230‐60年代のヴィテルボの混乱。ゲルフ(托鉢)とギベリン(ヴァルド・フミリアーティ)の対立。ギベリンによりローザ追放。預言者。クララ会へ入会を拒まれる。死後、アレクサンデル4世により入会認められる。
1457年カリクストゥス3世により列聖。祝日3月6日。


コルトーナマルガリータ(Margarita da Cortona ; 1247 - 1297)
トスカーナのロヴィアーノLoviano の農民の子として生まれる。7歳で母を亡くす。継母によるいじめ。モンテプルチアーノMontepulciano出身の若い貴族と駆け落ち。息子一人持つ。9年間妾として仕える。夫が盗賊に殺されるのを契機に回心、公的告解をし、父の家に帰ろうとするが父は拒否。彼女と息子はコルトーナフランシスコ会に匿われる。まだ若いために数々の男が寄って来るので、自身を不具にしようとするが、フランシスコ会士ジウンタGiuntaに止められる。病んだ女性や貧者の世話をして生計を得る。1277年にフランシスコ会第3会。深い瞑想生活、エクスタティックな幻視。1286年、貧者の世話を目的とした団体Poverelleを結成。コルトーナに施療院を作る。説教もした。聖体と受難へ深い信心。1728年ベネディクトゥス13世によって列聖。祝日は2月22日。


モンテプルチアーノのアンニェーゼ(Agnèse da Montepulciano ; 1268 - 1317)
富裕家系。トスカーナのグラッキアーノ・ヴェッキオ Gracchiano - Vecchio で生まれる。6歳でコンヴェントに入りたがる。9歳でモンテプルチアーノの修道院に入会。プロチェーナの修道院へ移る。15歳で女子修道院長。パンと水で生活。地面の上で石の枕で寝る。1298年ドミニコ会の新しい修道院で務めるためにモンテプルチアーノに戻り、最後までそこの女子修道院長に。
生まれる時家の周りを浮遊する光で告知される。子供の頃野原でカラスの群れに襲われるが悪魔が化けて彼女を連れ去ろうとした。祈りの間空中に浮く。天使から聖餐・マリアの幻視。幼児イエスを抱くヴィジョン。祈りでパンを増やす奇蹟。彼女が祈るとスミレや百合や薔薇が突然咲く。泉を湧かせる。
彼女の死に際してこの地域のすべての赤子がアンニェーゼについて語り始めた。1435年オルヴィエート Orvieto のドミニコ会修道院へ移葬。1534年列福。1726年教皇ベネディクトゥス13世により列聖。祝日4月20日


チッタ・ディ・カステッロマルガリータ(Margarita da Citta di Castello ; 1287 - 1320)
イタリア、ヴァード Vado 地方、メルドーラ Meldola で、盲目、跛行、畸形、せむしの侏儒として生まれる。6歳の時、貴族の両親により、ミサに出、秘蹟を受けれるようにと礼拝堂の傍で囲われる。14歳の時監禁状態。治癒を求めて参詣するも効果なく、見捨てられる。ドミニコ会の第3会になり、祈りと慈善に生きる。
1609年教皇パウルス5世により列福。祝日4月13日。


ファエンツァのマルガリータ(Margarita da Faenza ; m . 1330)
フィレンツェ近郊、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ修道院のヴァルンブローザ Vallumbrosa 会修道女。女子修道院長に。聖ウミルタの霊的弟子。
祝日8月26日。


シエナのカテリーナ(Caterina da Siena ; v . 1347 - 1380)
シエナの染色業者の娘。カタリナ・ベニンカーサCaterina Benincasa 。6歳でキリストの幻視体験。貞潔・キリストとの結婚を決意。17歳で家族の意に反してドミニコ会第3会に入会。両親の家で生活続ける。霊的指導はサン・ドメニコ修道院の修道士たちが担う。聖体拝領によるイメージからキリストとの神秘的結合の思想を構築。貧者や病人の世話に従事。「マンマ」と呼ばれる。1370年以降、教会の諸問題に介入。十字軍を説き、アヴィニョン教皇のローマ帰還に関与。キリスト教世界の平和を希求。1374年、フィレンツェでのドミニコ会の総会で彼女を本格的に支持表明。ライモン・ダ・カプア(Raymondo da Capua;v . 1330 - 1399)を告解師として派遣。後に彼女の伝記を書く。1375年4月1日ピサでスティグマ。1377年までアヴィニョンに滞在、グレゴリウス11世と会談、ローマ帰還説得。1378年大シスマ始まるとウルバヌス6世によりローマに招聘。『神の預言についての対話』Le Dialogue de la divine providence、『神の教義の書』Livre de la doctirine divine、『書簡集』Lettresなどの著作がある。ドミニコ会が女性の霊性のモデルとして彼女の崇敬を広めた。教皇ピウス2世により1461年列聖。祝日は4月29日。


ジェノヴァのカテリーナ(Caterina da Genova ; 1447 - 1510)
Caterinetta Fieschi。名門フィエスキ家出身。1463年に意に反して結婚させられ(16歳)、不信心な夫に苦しむ。ジェノヴァ教皇派と皇帝派和解のための政略結婚。子が無く、夫はカタリーナによって後に回心。1497年に夫が死ぬまで病人の世話をしながら二人は独居生活。1473年3月20日、告解を準備していた時に決定的な神秘体験をする。内面の神秘的生活と活発な施療院活動をこなす。「神秘的煉獄」を生きた。フランシスコ会第3会、1490年に長。1493年にペストに罹るも生き延びる。1499年にカッターネオ・マラボットー Cattaneo Marabottoの霊的弟子。ジェノヴァの聖人(1684年)。1737年にクレメンス12世によって列聖(祝日は9月15日、前は3月22日)。主著『愛と魂の対話』Dialog tra l'anima e il corpo、『煉獄論』Trattato del purgatorio 。


パッツィのマリア・マッダレーナ(Maria Magddalena de' Pazzi ; 1566 - 1607)
フィレンツェ出身。本名カテリーナ。14歳で修道院に送られるも、修道誓願への反対と結婚の計画から家に戻される。16歳で初期の厳修カルメル会に入ると家族は諦める。その際マリア・マッダレーナと名乗る。祈りと自己否定。
1669年教皇ウルバヌス8世により列聖。祝日5月25日。


ハンガリーのエリーザベト(Elizabeth von Hungary ; 1207 - 1231)
テューリンゲンのエリーザベト。ハンガリーアンドラーシュ2世とアンデシュ=ムランのゲルトルート(Gertrude d'Andechs - Meran)の娘。14才の時、テューリンゲン方伯ヘルマン1世の息子、ルートヴィヒと結婚。マールブルクのコンラートに師事。3人の子をもうける。20才で寡婦になった後、再婚を拒否し、居城ワルトブルクを退去させられ、アイゼナッハ近郊マールブルクに移住。施療院や癩施療院を設立、寡婦になった後はドイツのフランシスコ会の影響下に入る。フランシスコ会第3会のパトロンとしても知られる。1235年に列聖。祝日は11月17日。


ハンガリーのマルガレート(Margaret von Hungary ; 1242 - 1271)
ハンガリー王ベーラ4世の娘。モンゴルから解放された際、両親により次に生まれてくる子を神に捧げると約束。3歳で Veszprem のドミニコ会に入れられる。10歳でブダ近郊、Hansen Insel の修道院に。ボヘミア王オットカール2世との結婚が計画されるが彼女が断固拒否。18歳で誓願。厳格な悔悛業。
1943年教皇ピウス12世により列聖。祝日1月18日。


ノリッチのジュリアン(Julian of Norwich ; 1342 - ap .1416)
イングランド東部ノリッジ近郊の隠修女。臨死体験の経験から『神の愛の啓示』Revelations of Divine Love(1373年、古英語)を書く。幻視。「母なる神」。


マージェリー・ケンプ(" Margery Kempe " ; v . 1393 - ap . 1439)
1934年に発見された写本によって知られることになった15世紀イングランドの女性神秘家。『マージェリー・ケンプの書』The Book of Margery Kempe は俗語による女性の自伝(英語で著された最初の自伝)。ノーフォーク Norfolk のキングス・リン King's Lynn の大ブルジョワ家系に生まれる。結婚し14人の子の母、1413年に convertie になる。最初の出産時の精神疾患からキリストの幻視によって回復。以後神秘体験をしていく。イェルサレム、ローマ、サンティアゴ・デ・コンポステーラなどへ巡礼。スウェーデンのビルギッタの影響等、中世後期フランシスコ会学派を中心とした主意主義的敬神の流れを汲むものとされる。ロラード派異端が席巻する時代でもあり、その行動の奇矯さから度々ロラード派の嫌疑がかけられる。60歳を過ぎてもバルト海沿岸ダンツィヒまで旅行するほど精力旺盛。

そして、どーしても手元では調べら切れなかったのが、オーベルワイマールのルカルディス Lukardis von Oberweimar 。


僕の本業絡みで、13世紀のネーデルラントの「聖女」たち*1の伝記は一応全部読みました。ここに挙がっている以外にも後数人はいます(ウイのイヴェットとかエルケンローデのエリーザベトとか)。

すべての女性がかなりインパクトがあってそれぞれ面白いんですが、やはり極めつけにエキセントリックなのが「驚異の」クリスティーナでしょうね。3回死ぬんですもん。樹上生活するし、2日間首吊っても死なないし。奇行が凄まじい。そりゃ悪魔憑きって周囲に思われるよ。40年くらい前まで、この伝記を書いたドミニコ会士トマ・ド・カンタンプレThomas de Cantimpré *2のでっち上げだとか、学者に言われていたくらい、研究者を悩ませた女性。いつか、彼女単体で一本論文書いてみたい。

僕の印象だと、このネーデルラントの女性たちって、結構自分を痛めつける系が多いような。読んでいて、「痛ぁ〜」って気にさせられるのが結構多い。聖書読んで「イエス」って言葉が出てくるだけで胸一杯になって、その度に聖書を胸に押し付けて、あんまりやり過ぎるもんだから胸が傷だらけだったとか、自分の肉体が汚れた感じがしてとにかく嫌で、ナイフで肉切り落としたり。

それに対して、例えばハンガリー(テューリンゲンの)のエリーザベトなんか大した苦行しない。イタリアはちゃんと読んだことがないのでよくわかりませんが。でも15世紀のシエナのカテリーナは結構苦行してたよな。

彼女たちの伝記って実は聖人伝史上の一つの画期でもあって、彼女たちの伝記からスタイルが変化すると指摘されている。
この辺も面白い所なので、これ以上は言えませんが。

あと、スティグマ(聖痕)も彼女たちが魁で(パウロが初とも)、しかも結構いたりする。


あと、ドイツ地方の女性はかなり自分達でテクスト書く印象を持っています。
ま、ひとえにヘルフタの女子修道院がかなり突出しているせいでもあるんですが。
とはいえ、確かニュルンベルクだったかのドミニコ会の女子修道院も読み書き能力が高かったって研究あったよな。
それに女性に限らず、説教史の観点からでも、ドイツ地方って俗語の説教史料多かったりする。
エックハルトレーゲンスブルクのベルトルトとか。

このヘルフタを本格的に研究する人っていないのかなぁ?これは狙い目だと思うんだけど。単に無知なだけかも知れませんけどね。


近いうちにフランスの女性たちの伝記も少し読んでみたい。
マルセイユのドゥスリーヌは、やれればかなりオイシイと思う。
南仏のベギンってかなり穴。それに彼女は、兄があのユーグ・ド・ディーニュ。
フランシスコ会聖霊派(厳格派)Spirituali との関係もあって見所多いと思われる。


こうやって見ると、イングランドってちょっと「聖女」少ないな。
特に13世紀は聞いたこと無かったような。
ギルバート会とかあるし、女性の宗教運動が廃れていたわけではないのにね。


あと、スハルビークのアリス、クドのアルパイなどはレプラ(癩病ハンセン氏病)だし、チッタ・ディ・カステッロマルガリータなどは今で言ったら障害児(今だと差別用語満載で説明書きしてしまったが)。
自分の本業とはあまり関わらないけれども、中世の女性で、病になっている人々がどう生きたか、あるいは周囲はどう扱っていたのか、この辺を調べてみるのは重要かつ面白いテーマだよなぁと。


中世の慈善研究って日本でもあるし、貧困やレプラはそれこそ欧米の研究の蓄積は相当のものがある。
ただ、制度史というか組織史みたいなものが主流な感があるので、こういったナラティヴなテクストの読み込みと絡めたらきっと面白いことになるんだろうなぁ。

そもそも caritas (charity / charité)って、一応「慈善」とかに訳されるが、上手くこの内実表せていないように思う。
中世における「カリタス」の意味とは何だったのかって考えていくのはかなり大事よね。




ここに載せてある女性の一部は、上智の中思研が出している『中世思想原典集成』にテクストが一部収録されているので、人と思想の一端は邦語でも読める。



中世思想原典集成〈15〉女性の神秘家

中世思想原典集成〈15〉女性の神秘家

あとこっちもあるか。

中世の女性神秘家 1 キリスト教神秘主義著作集 <4>

中世の女性神秘家 1 キリスト教神秘主義著作集 <4>

*1:13世紀の女性たちは誰も列聖されていないのでカッコつき。

*2:説教史・思想史で有名人。