神野志隆光『古事記と日本書紀』
- 作者: 神野志隆光
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1999/01/20
- メディア: 新書
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著者は東大駒場の教授。専門は古代日本文学。1946年生まれ。
しかし改めて見ると、なかなかすごい苗字ですな。
冒頭で、著者は、『古事記』『日本書紀』は、「古代の問題に留まらず、両者は古典として“ずっと”仰がれ続け、私たち日本人にとって意味をもつものであり続け、日本の精神史の核となってきた」そうだ。
これは某ネット界隈風に言えば、なかなか「大きな釣り針」と言えるだろうか。
先に三浦本を読んだせいか、いかんせん、正直しっくりこなかった。
『古事記』『日本書紀』をセットで捉えるべき、というスタンスでは、やはりどうテクストを論じても、もはやあまり説得的に伝わってこなくなってしまう。
まあ、10年くらい違いあるので仕方が無いのかも知れない。
テクストの複数性というか、テクストの外部にテクストが生成されるみたいな論も、正直嫌いではないけれど、あまりピンとこなかった。
どうも、古代文学での傾向なのかわからないが、原型論が好きなんだろうか。
何度か「原テクスト」を仮定した議論がある。
テクスト論の動向から見ると、こうした流れはどの辺りに位置づけられるのだろうか。
紙数の関係かもしれないが、主要な先行研究についてあまり十分に批判していないように思われた。
まさか、デュメジル使ってる研究あるなどこちらは知らなかったので、今なら尚更、ここはもっとつっこんで欲しいと個人的には思った。
『古語拾遺』を多元的天皇神話の再構築・一元化の過程で重要な役割を果たすと指摘するなどは面白い。
著者は、例えば『古語拾遺』が『日本書紀』を祭儀神話化し、変換したことを言及したあとに、『古語拾遺』が祭祀と神話との間に回路を開くような転換をもたら「してまった」、と指摘する。
素人的にはかなりこれは面白いことなんだが、この書き方だと、あまりよろしくなかったような印象を受ける。
それから、しっくりこなさ加減の一つに、随所で「要するに〜」「要は〜」と出てくるが、あまり「要して」ないし、くどくなる時の方が多い、というのもある。
大体、「要は」が頻発してでてくると、この人あまり考えまとまって無いんではないのか思ってしまう。
ついでに言うと、文体も余り受けつけなかった。
草壁皇子は何より、その天武王朝の継承者として、ある。
とかね。個人的にこういうの苦手。
とはいえ、こちらは全くの門外漢なので、記紀の記述や解釈ではいろいろと興味深い指摘があって、そこは純粋に勉強になった。
しかし、古代関係は、「レガリア」ってよく言いたがるよね。