ファシズムの心理:フロム『自由からの逃走』
- 作者:エーリッヒ・フロム
- 発売日: 1952/01/01
- メディア: 単行本
ドイツ社会心理学・精神分析学・哲学者、エーリッヒ・フロム(Erich Seligmann Fromm, 1900-1980)のいわずと知れた作品であり、ファシズムの心理学的起源を解明しようとした社会心理学研究の古典的名著。
原著 Escape from Freedom は1941年にニューヨークで出版。
ナチス・ドイツのファシズムに関する社会心理学的研究の名著は、ユダヤ系ドイツ人の手で、移住先で、英語で書かれたということはちょっと意識しておいていいことだと思う。
恐らく彼がまず最初に訴えたかった相手(ドイツの人々)には、この作品は届いていなかったでしょう。
キャリアについてはウィキでも調べればいいと思うけれど、簡単に。
フロムはフランクフルト生まれのユダヤ系ドイツ人で、大学ではヤスパースなどに師事。
アドルノやホルクハイマーに代表される、フランクフルト学派 Frankfurter Schule の主要メンバー(いわゆる第一世代)の一人でもあり、1934年、ナチス台頭時期に彼らと共にアメリカへ移住する。
これも数年前に内容まとめる必要があったもの。
キナ臭いご時勢の今、ここで載せてみるのもいいかと思い投稿。
目次
序文
第1章 自由―心理学的問題か?
第2章 個人の解放と自由の多義性
第3章 宗教改革時代の自由
1.中世的背景とルネッサンス
2.宗教改革の時代
第4章 近代人における自由の二面性
第5章 逃避のメカニズム
1.権威主義
2.破壊性
3.機械的画一性
第6章 ナチズムの心理
第7章 自由とデモクラシー
1.個性の幻影
2.自由と自発性
付録 性格と社会過程
訳者あとがき
新版にさいして
序文
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- 本書全体の問い=近代人にとっての自由の意味の解明←現代の文化的社会的危機に対する決定的意味を持つ1側面だから←広い範囲では、近代人の性格構造に関する心理的・社会的要因との交互作用研究の一部
- なぜ心理学が現代の社会過程の力学分析に重要なのか⇒社会過程の基礎的実体は個人だから←個人の欲望・恐怖・激情・理性・善悪の傾向⇒社会過程の力学理解のためには個人の心理的過程の力学分析が必要だから←個人を理解するためには個人を形成する文化の文脈の中で個人を見なければならないように
- 本書の主題:近代人が得た自由=安定と束縛を与えていた前個人的社会的絆からの自由≒個人的自我の自由(個人の知的・感情的・感覚的諸能力の積極的表現という積極的意味での自由を獲得してはいなかった)
- 自由=近代人に独立と合理性を付与/個人を孤独・不安・無力なものにした⇒自由の代償としての孤独の耐え難い重荷⇒重荷から逃れて新しい依存と従属を希求するか/人間の独自性・個性に基づく積極的な自由の完全な実現に進むかの2択
*全体主義がなぜ自由から逃避しようとするのかを理解すること=全体主義的力を征服しようとするすべての行為の前提であるため←ファシズムがなぜ起こり、席巻したのかが問いの根底
第1章 自由―心理学的問題か?
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- 近代欧米の歴史=自由の獲得のための努力の歴史(政治的・経済的・精神的の枷)⇒自由を求める戦いの歴史←自由獲得のプロセスとして近代を見る
- 外的支配(教会・絶対主義国家の)の廃止=個人の自由獲得のための必要十分条件と思われていた
- 第1次世界大戦=自由獲得のための最後の戦い→ところがたった数年で、人びとは数世紀に渡って先人たちが勝ち得てきたものを、自由を一切否定する新しい組織が出現⇒その組織の本質は自らを支配できない権威へ服従すること=権威主義的組織の勝利←当時どうこれを捉えていたか?→デモクラシーの未熟?/権謀術数?/一個人の狂気?
- なぜ自由を簡単に捨ててしまったのか?なぜ自由を死に値するほどの価値があると信じていなかったのか?
「われわれのデモクラシーに対する容易ならぬ脅威は、外国の全体主義国家が存在するということではない。外的権威や規律や統一、外国の指導者への依存などが勝ちを占めた条件が、まさにわれわれ自身の態度の中にも、われわれ自身の制度の中にも存在するということである。したがって戦場はここに―われわれ自身とわれわれの制度の中に存在している」(ジョン・デューイ)
- ファシズムを勃興させた経済・社会的条件の問題以外に、人間的問題を理解する必要性
- 自由とは何か:自由を求める欲求は人間性固有のものか/生活・文化と無関係な一律的経験か/社会ごとの個人主義の発達の程度で異なるものか/自由とは単に外的圧迫のない状態のことか/自由へ駆り立てる社会・経済的条件があるのか/自由が耐えがたく逃れたいものとなるようなことがありうるのか
⇔逆に自由の渇望の内に服従を渇望する欲求がありはしないか/もしないのなら、なぜ今日あれほど指導者への服従が多くの人々を引き付けているのか/服従とは何か:外見的権威への服従だけか/義務・良心といった内面化された権威・強制力・世論のような匿名の権威に対する服従か/服従することに隠された満足があるのか、その本質は何か
- 自由な人間的側面と権威主義とを分析すること:社会過程において心理的要素がいかに活発に働いているかという一般的問題を考察せざるを得ない⇒啓蒙主義が勝利したのではなかったのか←近代はホッブズ的人間像(利己心に従って行為する能力により、自己の行動を決定できる理性的存在としての人間像→「万人に対する万人の闘争」)を克服したのではなかったのか?=人間は世界も人間も本質的に合理的存在としてますます信じるようになったのではなかったのか?⇒これがファシズム台頭時の準備の無さ(理論的・実践的)につながる=「休火山」(悪・力への渇望・弱者排除・服従への憧憬)の死角←ニーチェ、マルクス、フロイトがこの19世紀の楽観主義に警告を与えていた
- フロイトの意義:近代合理主義が見逃していた人間性の非合理的無意識を暴き出しただけでなく、これら非合理的現象も一定の法則に従っており、ゆえに合理的理解も可能であることを指摘した/フロイトの限界:人間性を悪とする伝統的教義だけでなく、社会と個人とを根本的に2つに分ける伝統的考え方を受け入れていた⇒人間=根本的に反社会的存在/社会が人間の自然的衝動を手なずけ、抑圧する⇒文化的行動が生まれる(昇華:文化レベルが高いほど抑圧度が高い=神経症患者多い)⇒個人と社会の関係が本質的に静的(個人は本来同一であり、社会が個人の自然的衝動に圧力や満足を与える。それにつれて個人は変化するだけ)/どの文化における個人も「人間」であって、近代人固有の感情・不安も人間の生物学的構造に基づいた永遠の力とみなされていた
- フロイトの個人=常に他人との関係においてとらえる/ただし資本主義社会の経済人と似ている=自分自身のために個人主義的に働き、他人のために働くのではない。他人は自己の目的のための手段にすぎない→市場と人間関係の世界が似ている
- 心理学の重要な問題:個人の外界に対する特殊な関係≠多様な本能的要求それ自体の満足や葛藤の問題/個人と社会の関係も静的なものではない⇒渇望・性欲はある。人間の性格の個人差を作るもの=多様な衝動(愛憎・権力への欲望・服従への憧憬・官能的享楽・恐怖)は社会過程の産物←社会は抑圧的だけでなく創造的機能もある⇒人間自身が不断の人間の努力のもっとも重要な創造であり完成⇒人間の努力の記録=歴史←だから歴史をやる
- 時代間ごとになぜ人間の性格に差異が生じるのか←歴史における人間の創造の過程を理解すること=社会心理学の仕事
- 社会心理学の仕事:社会過程の結果として、情熱・欲求・不安がどのように変化し発展するか示すだけでなく/特殊な形となった人間のエネルギーが逆に生産的な力となって社会過程をどのように作っていくのかも示す⇒フロイト/デュルケム批判←歴史を社会的に規定されない心理的要素の結果/社会過程における人間的要素の役割を無視するから
←これは明らかにおかしいでしょう。
- それらを理解するために適応概念:心理的メカニズム・心理的法則の意味を明らかにする⇒「静的」適応=単に新しい習慣を取り入れるだけの行動様式。全体の性格構造に変化なし。中国式の食事作法からフォークやナイフを使う西欧的作法に変わるようなもの→新しい衝動や習性を生み出さない/「動的」適応=子供が厳格で恐ろしい父のいいつけに従って、恐れのあまり「よい子」になるケース→必要に迫られて環境に適応するが、内面に変化が起こる。強い敵意の抑圧→性格構造に変化を与える→不安を生み出し、根深い服従へ導く→神経症はすべてこの動的適応例←これが後で分析に効いてくる
- 最初に検討すべきこと=人間の性質には他よりいっそう伸縮自在な適応しやすい部分がある→個人差のある衝動・習性=非常に多くの弾力性と可塑性に富む(愛・破壊性・サディズム・服従への傾向・力や分離への渇望・自己拡張の欲求・節約への情熱・官能的快楽の追求・淫蕩への恐怖…)⇒人間は自己保存の欲求だけで行動するのではない(=生理的条件だけではない)。社会組織のあり方からくる生活様式・習慣も人間の性格構造全体を決定する(=外界との接続欲求・孤独回避欲求)
- 精神的孤独=社会の価値・象徴・行動様式とのつながりの喪失⇒狂気の状態⇒人間は孤独に対して恐怖がある→なかでも精神的孤独が最も恐ろしいもの
- なぜ人は他者と一つに結ばれたいのか?→人間は他人と何らかの協同なしには生きてはいけない/「帰属」を求めるもう一つの理由→主観的自己意識の事実/自己を自然や他人とは違った個体として意識する思考能力=アイデンティティーの存在?
- 自分が存在する「意味」が欲しい
- 人間の自由の増大=「個人」(孤独)の増大⇒自発性をもって外界と接続するか/自由・自我の統一性を破壊する紐帯である種の安定をえるか(人間が自由となればなるほど、そして彼がますます「個人」となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性の中で外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるかの2択しかない)
第2章 個人の解放と自由の多義性
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- 自由分析理解のために必要な検討前提=自由は人間存在自体の特質/自由の意味の問題←人間が独立し、分離した存在として意識する程度によって違いがあるということ
- 個人の生涯も同様:母親との一体から分離した一個の生物学的存在へ←自然(母)と人間(子)のアナロジー/第1次的絆:個人が完全に解放される以前に存在する絆(母子・未開社会の氏族と自然・中世の教会と人間…)/個人化=他者化の過程でもある(我/汝)←社会の過程も人間の心理的発達過程と同じように見ている
- 自我=意志と理性によって組織・綜合されたパーソナリティ全体の構造⇒個性化の過程=自我の力の成長←すべての社会に一定の個性化のレベルがある
- 個性化の他の面=孤独の増大←第1次的絆=安定・外界との根本的統一付与⇒外界との脱却につれて孤独・他人と引き離された存在であることの自覚←そうか?
- ⇒外界への完全な没入・孤独と無力感克服への衝動が発生←ピンと来ない/ところでなぜ母子関係ばかりで父が出てこないのか?
- 孤独・不安を回避する方法=服従⇒子供の不安増大/敵意と反抗を生む←この敵意と反抗に子供が依存している/自発的関係(人間や自然に対する)←唯一生産的方法→個人を放棄することなく個人を世界に結びつける関係=愛情と生産的な仕事⇒個性化の進展=服従と自発的行動を生む⇒近代とはまさにこの社会だと捉えている←安定・安心を与えてくれた絆・他者と一体となっていた原初的同一性の喪失⇒激しい孤独・不安・動揺
- 人間の歴史=個性化と自由の成長過程←単純すぎる・進歩史観ダブらせている
←本能(遺伝的神経学上の構造によって決定される特殊な行動様式)からの自由/「発展段階」!
- 人間存在と自由=その発端から分離不可能:「…への自由」=積極的/「…からの自由」=消極的←行為が本能的に決定されることからの自由
- 人間の生物学的弱さ=人間文化の条件←人間は環境適応が本能的行動と比較して緩慢で効果乏しい。本能が準備してくれないから、そこから起こる危険と恐怖をすべて経験する。無力だからこそ、人間的発展の生まれてくる根底がある⇒人間は自然の一部/自然を超越する⇒人間と自由の根本的関係の例=「楽園追放」エデンでの選択という行為→自由な行為が悲劇を生む=罪/人間の歴史にとっては自由の始まり←そう?
- なぜ人類の歴史は衝突と闘争の歴史なのか=調和の取れた発展・力の増大と個性化の進展が均衡の取れたものにならないのか⇒楽園追放された人間=個別化した人間を世界に結びつける唯一の解決法⇒すべての人間との積極的連帯/愛情・仕事という自発的行為←経済的・社会的・政治的諸条件が個性化の進展の実現を妨害すると→安定を与えてくれた絆が無い世界では、このズレが自由を耐え難い重荷に変える→自由から逃れ、不安から救出してくれるような人間・外界に服従しようとする強力な傾向が生じる
- 中世末期以降のヨーロッパ・アメリカの歴史=個人の完全な解放の歴史←だから歴史的に心理学的過程の考察をしたいと←正直この歴史認識も西欧中心史観⇒近代人に対する自由の意味研究のために中世末期・初期近代ヨーロッパ文化の様相分析
←この時期に西欧社会の経済的基盤の根本的変化により、人間のパーソナリティ構造にも同様の根本的変化が起きたから
言いたくなるのはわかるけど浅いと思う。
→この時期に外的権威から自由になり、独立性を獲得していく反面、孤独の増大・個人の無意味さ・無力さの感情も高まるから←近代に傾向が似ているから単に近代の解釈で近世を解釈しようとしているように見える
- どのようにして近代人の性格が形成されたか/またこのパーソナリティの変化から生まれた新しい精神とはどのようなものか⇒宗教改革と現代の様相がいかに類似しているか示す=自由が多義的意味を持っている点でこの時代ほど似ている時代は無い→人間の弱さ・個人の無意味・無力・外的力への隷属欲求→イデオロギー的類似だけでなく、社会状態の根本的類似がある⇒イデオロギー的心理的類似とどう対応しているか示す←経済的社会的組織の革命的変化によって伝統的生活様式が脅かされていた。中産階級が現代同様独占の力と資本の優越した力によって脅かされていた
第3章 宗教改革時代の自由
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1 中世的背景とルネッサンス
- とくに近代社会と比べて中世社会が特徴的なもの=個人的自由の欠如/不自由である反面、孤独・孤立していなかった(身分制社会)。人間は全体の構造の中に根を下ろしていた←まさにフェルキッシュが言う「根付く」という言葉遣い←実際生活における具体的個人主義はあった(←身分制内部での「自由」。近代的個人主義ではない)/教会の存在←個人的自由の欠如のもう一つの要因。絶対的神のもとの平等愛→人間に安定感⇒中世に「個人」は存在しない=個人の自由も存在しない←まんまブルクハルトの中世・ルネサンス理解
- 中世末期:社会機構と人間のパーソナリティが変化⇒個人主義の成長←統一と中央集権の弱体化=資本・経済的創意・競争が重要視←これもおかしい。むしろ逆/都市中産階級の台頭←ここをフロムは重視。というかナチス前夜をダブらせている。
- その魁がルネサンス=「個人」の誕生=「近代」の誕生/→なぜルネサンスが個人主義の発祥か?→生まれや家柄よりも富が重要な社会=資本主義の萌芽
- 近代的「個人」の意義:国家や世界を客観/主観の視点の強調←特に「内面」の発見←自他の区別=世界と「個人」を区別する視点
- プロテスタンティズム(カルヴィニズム):都市中産階級の性格構造に影響=自由の感情と自由の重荷からの逃避⇒中世商業:独占・資本の増大/都市職人ギルド:工業化(機械化)→職人層の崩壊⇒能率化・富・物質的成功⇒固定した場所の喪失・個(孤)人・自助的努力(自己責任)
- 社会の全階層の性格構造に影響=富裕者も常に不安に苛まされている←資本・市場・競争の役割の増大
- 資本主義=個人を解放:自主独立の精神・自己の運命を決定=危険も勝利も成功も失敗もすべて自分のもの⇒個人は独りで世界に立ち向かう:果てしない恐怖に満ちた世界に独り放り出された異邦人。新しい自由=必然的に動揺・無力・懐疑・孤独・不安の感情を生み出す。個人がうまく活動しようと思えば、これらの感情は和らげねばならない⇒宗教改革
2 宗教改革の時代
- ルターとカルヴァンの登場:富裕上層階級≠都市中産・貧困階級・農民の宗教
ここは今では修正が恐らく必要でしょう。彼らの教えは都市中・上層階級の宗教。人文主義と階級の問題無視しているかと。
- 宗教的教義・政治的原理の心理的意味研究の方法と意義:まだ誰もやったこと無いから説明している:原理の真理性の是非は問わない/個人の主観的動機分析にとどめる→新教義創造者個人の性格構造研究→パーソナリティ上の特性と思想の傾向の独自性の理解/受容者・社会集団の心理的動機の理解
正直この辺はむちゃくちゃじゃないのかと。
言ってしまえばルターの発言に矛盾があっても問題ないという方法的態度。
なぜなら、それも心理学的には分析対象だから。自分の理解の問題は蚊帳の外。自分の認識の枠組み・ものの見方が客観的であるという無意識的な態度のように見える。
- 中世の自由意志/ルターの自由意志の問題
- ルターの意義:「宗教」を教会から個人の手に与えた→信仰・救済は主観的個人的経験であって、責任はすべて個人にあり、個人が自分で獲得できないものを個人に与えてくれる権威とは少しも関係が無いということ
- 確実性への強烈な追求=純粋な信仰の表現ではなく、耐えられない懐疑を克服しようとする要求に根ざしている/懐疑=人間が孤独を克服しない限り、彼の欲求に対して、彼の位置が意味あるものとならない限りは、決して消滅しないだろう
- カルヴァン:アングロ・サクソン諸国に対する影響(ルターとドイツの関係)。教義・心理的側面もほぼルターと同じ/予定説の心理的2重の意味=個人の無力・無意味の感情を表現・強化←人間の意志と努力に価値がないということをこれほど強調した表現はない。人間の運命は自らの手から奪われている⇒非合理的なものへの懐疑を沈めるどころか強化⇒ナチのイデオロギーで復活(人間は根本的に不平等)
←ナチとカルヴァンを結ぶ糸を証明していない/道徳的努力・生活の重要性を一層激しく強調→努力すること・道徳的生活すること=救われた人間の証⇒世俗内禁欲 ←心理学的意味=努力すること=不安の裏返し/「逃避」←存在の無意味に対する←実際のカルヴァン教徒の分析しないと意味ない
- 労働観の変化:働かなければならないから働く←中世は外的圧力で感じていた。これが近代では内的強制になっている。その変化の原因はカルヴァン
*この章はプロ倫を社会心理学的に読んで見ましたという感じ
第4章 近代人における自由の二面性
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- 資本主義社会の発達と宗教改革期の変化がいかに同方向へとパーソナリティに影響したか⇒近代産業組織の発展/個人の自由と不安←人間はより一層独立的・自律的・批判的なった/いっそう孤立・孤独・恐怖に満ちたものになったことを明らかにする
- 宗教・信仰の自由を勝ち取った/自然科学で証明されないもの信じる力を失った⇒なぜいまだに「世論」「常識」=「匿名の権威」に服従しようとするのか←内面にある束縛・恐怖を見落としてこなかったか?
- 資本主義=自由/能動的・批判的・責任ある自我を成長⇔個人を孤独・孤立・無力・無意味の感情を付与←資本主義が全面的に悪とは見なしていない⇒自らの自我と人生とを信ずることができるような、新しい自由を獲得すべき←現在、人はこれを忘れている。どうやったらそれが実現できるのかを考える
- 資本主義:経済的自由=経済的個人主義(利己心・自己中心主義)←完全に悪とはみなしていない。自由のための原動力の一つ⇒疎外:←マルクスの疎外論。個人が経済的目的に手段として服従すること。人は利益を求めて働く。だがそこで得た利益を消費するためのものではなく、新しい資本として投資するため。この運動は人類の進歩に対して意義大。だが主観的には、人間が人間をこえた目的のために働き、人間が作ったその機械の召使となり、ひいては個人の無意味と無力の感情を生み出すことになった。
- 利己心の心理学的分析:利己心=自愛(ルター/カルヴァン/カント/フロイト)←他人を愛するのは徳であり、自己を愛するのは罪であり、さらに他人に対する愛と自己に対する愛とは互いに相容れないという考え⇒愛の性質についての理論の誤った考え。愛はもともとある特定の対象によって「惹き起こされる」ものではない。人間中に潜む靄のようなもの。「対象」はその現実化に過ぎない。憎悪は破壊を求める激しい欲望/愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的欲求=愛は「好むこと」ではなくて、その対象の幸福、成長、自由を目指す積極的な追求であり、内面的なつながり。
それは原則われわれも含めたすべての人間・すべての事物に向けられるよう準備されている。←ロマンティックな恋愛観と愛は違う。ただ一人の人間についてだけ経験されるような愛は、まさにそのことによって愛ではなく、サド・マゾヒズム的執着。→原則的に、私自身もまた他人と同じように、私の愛の対象。他人しか「愛する」ことができないものは、まったく愛することはできない。⇔利己主義と自愛は別:利己主義=貪欲の一つ/自愛の欠如←内面の安定がない。自分自身を好まない者は、常に自分自身に対して不安を抱いている。ナルシス的人間も同様。自分自身のために物を得ようと腐心する代わりに、自分自身を賞賛することに気をかけている人間。表面上の自己愛。自愛が根本的に欠如していることを無理に贖おうとしている結果。
- 近代的自我←近代利己主義による欲求不満の表れ:「自我」=社会的自我←個人に対する役割期待で構成。実際には、社会におかれた人間の客観的な社会的機能を、たんに主観的に偽装したものに過ぎない(社会的機能の内面化)。よって近代人は一見自我を極端に主張しているように見えて、実は彼の自我は弱体化
- 人間は、自然を支配することができるようになったのに、なぜ社会は自らが作り出したさまざまな力を統制できないでいるのか?⇒ここも「疎外」。人間は自ら創った世界の奴隷となった。→これが近代人の孤独・不安・無力感の淵源⇒人間関係も疎外←どちらも目的に対する手段の関係になってしまっている⇒そのもっとも荒廃し、疎外された関係=人間の自分自身との関係←人は自らを切り売りして生きている(肉体労働者=肉体のエネルギー/リーマン=「人格」)→商品化=市場が人間の存在そのものを決定している状態→「他人(社会)から求められる人間になりなさい」←裏を返すと、そうでない人間は無に等しい。
自己評価が「人格」の成功に依存している。自尊心も劣等感もすべて社会関係における人気があるかどうか
とても戦前の話に聞えない。
- 近代的自我を支える要素:財産←不安な「個人」であるという自覚を抑制/名声/権力/家族←物質的象徴の無い者にとって。妻・子を従えた舞台の中心になれる。何者かであると思うことができる。(家では国王)/国家的誇り
- 1920年代以降:独占資本主義の増大⇒人間的自由に対する傾向に変化=個人的自我の弱体化←人間がますます経済組織の一部→自由より不安←恐慌・ドイツのハイパー・インレ⇒特に中産階級に(特に台頭してきたホワイトカラー←これ自身大企業ができなければ生まれなかった。そして彼らは一層歯車の一部としての不安強い。代用品はいくらでもいる)/労働者も←大工場→不可視化する親方=「経営」という匿名の権力=パノプティコン/買い手(消費者)←デパートにとってただ一人の買い手にすぎない・抽象的存在としての客
- 巨大広告:非合理的/商品の性質に無関係/買い手の批判力を窒息←阿片や催眠術のようなもの→批判的思考力を鈍化させる手段の横溢=デモクラシーにとってはるかに危険
- 大衆←政治的にも人間は疎外。巨大政党・候補者を吟味する手段も奪われている←政治家・政治もますます不可視になっている/政治宣伝の方法←スローガンの繰り返し。巨大広告と同じ。批判力麻痺
- 広告・宣伝の問題:個人へのへつらい・いかにも重要な存在であるかのように批判的判断・洞察力に訴える偽装←本質は個人の批判力鈍化・判断力を馬鹿にする方法
- 失業者←そもそもこれも近代の産物。「失業者」なる存在はそれまでいなかった。
- 大衆:個人が微粒子・自分を支配できない次元で直面する一群
- 現代の個人の孤独・無意味の予見:キェルケゴール/ニーチェ/カフカ/ジュリアン・グリーン→だが一般の普通人は自らの孤独・無力感をまったく意識していないことが問題←あまりに恐ろしいから。気晴らしに「逃げる」
*個人の無力さを増大させる社会の諸要因
第5章 逃避のメカニズム
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- ファシズムの心理学的意味・独裁制度/民主主義における自由の意味の分析←それを考える前に、分析の土台となる心理的メカニズムの具体的検討:特に個人心理学(個人の綿密な精神分析的研究によるさまざまな観察をとりあげる)
- 心理学の意義:無意識的力の概念を利用する心理学だけが、個人・文化の分析でわれわれが誤って犯している合理化を突破可能
- 個人の観察による発見=集団心理学の理解に適用可能か?=Yes←どのような集団も個人によってできたものだから←方法論的個人主義は社会の分析に可能か?⇒集団内で作動するメカニズム=個人内で作動するメカニズム
- では個人の行動研究が大切だとしても、一般に神経症患者とレッテル貼られているような個人を研究することが社会心理学の問題に有益なのか?=Yes←正常人も神経症的人間について観察している現象は同じだから⇒神経症的/正常的/健康的の定義:正常・健康=社会・個人の立場からの定義→社会においてその人が期待される役割を担うこと・再生産に参加すること(=家族を作っていくこと)/個人の成長と幸福=社会の円滑な機能という目標/個人の完全な発達という目標←明らかに分裂
- 誰が人を「神経症」・「正常」・「健康」を認定するのか?/「正常」の陥穽→社会によく適応している人間=人間的価値では神経症的患者よりも一層不健康なケースもある←社会に適応している(と思われている)人間ほど病んでいる←どっちが不健康なのか?
1 権威主義
- 逃避のメカニズムの第1:人間が個人的自我の独立を捨てて、その個人に欠如しているような力を獲得するために、彼の外側の何者か・何事かと、自分自身を融合させるような傾向←失われた第1次的絆の代用として新しい「第2次的」絆を求めること
- マゾヒズム的傾向:劣等感・無力感・個人の無意味さの感情←極度に自分を低く評価する傾向←これらに取り付かれた人の欲求不満からの逃避として⇒外部の力・制度・他人・自然に依存←自分を肯定できないから外部の「確かなもの」と思しき秩序に服従しようとする→非合理的・病的に見えて実際は合理化されていることが多い→愛・忠誠・欠点の適切な表現(劣等感を)・環境(悩みを)にすり替え・錯覚を起こさせている
- サディズム的傾向:他人を自己に依存させ、彼らに絶対的無制限的力をふるい、彼らを完全に道具としてしまおうという願望/他人を絶対的支配するだけでなく、完全に搾取しようとする願望/他人を苦しめ、苦しむのを見ようとする願望
- サディズム的傾向の方がいっそう無意識的でかつ合理化されることが多い:他人への過度の善意・配慮として隠蔽される:「あなたのためを思って支配しているのだ。だからおまえは私に従わなければならない」
←DV、児童虐待などはこれか。
- サディズム的衝動の攻撃的形の合理化:自身の攻撃理由を相手から先に攻撃されたとするもの/先に攻撃したのは危険を防ぐため→先制攻撃論⇒断ち切ることのできな魔術的な循環←うまい
- サディズム的人間の傾向:愛=彼が支配していると感じている人間「だけ」、きわめてはっきりと愛の対象とする=支配しているから愛する←これで育つと子供はどうなるか?→愛に対して深い恐怖を刻印される⇒愛とは、自由を求めながら、捕らえられ、閉じ込められることを意味するから
- サディズム=「善い」ことではないが「自然」と認識されてきた(ホッブズ)⇒支配の願望=快楽・安全を希求する願望の合理的結果←西洋的価値観では?⇒では苦痛や苦悩に惹きつけられている人々がいることはどう説明できるのか?
- 性的倒錯との性格傾向の関係←類似しているが本質的に1つの現象(特にマゾ):マゾヒズム的倒錯:何かの方法で苦しみ、そのことを楽しもうとする人間の存在→辱め、叱責、幼児扱いによって精神的に弱くさせられること/サディズム的倒錯:マゾヒズム的倒錯に対応。他人を傷つけることで満足感を得る
- 従来のサド・マゾヒズム理解:性的現象(フロイト←基本性欲で説明しようとするよね)→サド・マゾは性本能と死本能の混合産物=性本能と死本能(性と破壊性)の融合に失敗すると、自己か他人を破壊するより他ないと見た/劣等感・力への願望(アドラー)/(マゾが)性的倒錯に根拠を置くものではなく、(逆にマゾ的性的倒錯は)特殊な性格構造に根拠を置いた心理的傾向の性的表現(ライヒ、ホーナイ、フロム←要するに新フロイト派(社会心理学派))⇒ではマゾヒズム的倒錯・マゾヒズム的性格に共通する根源は何か?/マゾヒズム的・サディズム的努力の共通の根源は何か?⇒耐え難い孤独感・無力感からの逃避←一応臨床経験からの答えらしいが証拠なし
- ファシズム=マゾヒズム的努力を満足させる文化の形式⇒だから数百万の人を結びつける安定を与えた。しかしこれは所詮マゾの表層の解決にすぎない。自己を忘れる目的のための手段←しかしもしフロムの分析が正しいなら、そんなにドイツ人はマゾばっかりだったのか?/そんなに孤独で切羽詰ってたのか?←孤独感分析が全然実証的ない→どうもそうらしい。多くのドイツ人は神経症的だった。耐え難い強迫感からの逃避の行動をとった
- サディズム的衝動の本質=他人を完全に支配しようとする(快楽)こと・意志に対して無力にすること・絶対的支配者となること・思うままに相手を操ること
- サド・マゾヒズムの根源的要求は一つ=孤独に耐えられないこと・自己自身の弱点から逃れること⇒心理学的共棲symbiosis=自己と他者相互に自らの統一性を失い、相互に完全に依存しあう一体化←孤独なだけでこうなるのか?心理学的孤独の理解がどうしてもわからない⇒結局、どちらも個性と自由が奪われている
-愛=平等と自由に基づくもの←サド・マゾヒズム的関係と混同すべきではない。サド・マゾは愛と勘違い・偽装しやすい
- 力の意味:力への欲望=弱さの表れ(心理学的意味では)/支配(する能力)・(潜在的)能力
- サド・マゾヒズム的衝動/性格←精神分析学の性衝動分析を人間の性格に適用←だからといってその人間が神経症というわけではない。正常・神経症かを左右するのは⇒社会的状況・文化の形式(感情・行動)⇒ドイツ・他のヨーロッパ諸国の下層中産階級の大部分に典型
←ほんと?階級って動くよね?
⇒「権威主義的性格」←サド・マゾヒズム的人間の特徴は権威に対する態度に表れるから。/ファッショ的組織自身が権威主義的と呼称。ファシズムの人間的基礎となるようなパーソナリティ構造の代表として
- 権威:優越を媒介とした人間関係→理性的権威(教師・生徒)/禁止的権威(主人・奴隷)←分類意味ない。現実には2つが混ざっていると言ってるし。;外的権威(制度・個人)/内的権威(義務・良心・超自我);現代=権威の不可視化(匿名の権威)→常識・科学・精神の健康・正常性・世論←今ならエコとかもか←フーコーの権力の不可視化→効果:人は無自覚・無批判に服従することになる。命令する者・される者相互に不可視化されている。
- 権威主義的特徴:力に対する態度←力のある者・無い者どちらかしかいない二分法。力があれば賞賛・愛の対象。なければ無力、攻撃対象/権威への挑戦・反感の傾向←権威が弱まるとそれを憎悪→権威主義的性格は革命的ではない。「反逆者」/人間の自由を束縛するものを愛する。宿命に服従することを好む。平等の観念はない
- 魔術的助け手:人間を孤独から保護・連帯させる性質をもつもの←人間にこの性質が付与されると、人格化される=カリスマ指導者?←ヒトラーを言いたい
2 破壊性
- サド・マゾヒズム的追求・破壊性は相互に深く絡み合ってるが区別すべき→破壊性は積極的・消極的問わず、対象との共棲を目指すものではなく、対象を除去しようとするところにあるから
- 破壊性:個人の無力感・孤独感に基づいている→外界に対する自己の無力感がその外界を破壊することによって逃れることができる。サディズムとは違う。サドは対象と合体しようとするから。
- 不安の役割:物質的・感情的重大な関心に対して脅威が加えられると生じる→不安の反作用として破壊的傾向/生命の障害
- フロイトの人間行為の2つの基本的動機:性的衝動/自己保存の追求/破壊性本能←これの仮定がフロイトは適当ではない。破壊性の程度が個人により、また社会集団によって非常に変化するということを考慮にいれないでただ生物学的説明で終わってしまっている
→ヨーロッパ下層中産階級の破壊性の度合いが労働者階級や上層階級よりもはるかに大きい
←ソースは何?
→破壊性は生きられない生命の爆発
- 社会過程において破壊性が演ずるダイナミックな役割を理解するだけでなく、それを強める特殊条件がなんであるか理解することが重要
←一体何が言いたい文なのか?
- ナチズム勃興の重要な要因:下層中産階級の破壊性←この破壊性の根源が個人の孤独と成長の抑圧
3 機械的画一性←ここが一番精神分析学の具体的事例多い。催眠術の事例、夢判断、22歳の医学生
- その他の逃避のメカニズム(引きこもり←外界から完全に退いて外界が脅威を失うようにする方法/誇大妄想←自己を心理的に拡大して、外界を相対的に縮小する方法)←個人の心理には重要だが文化的には大した意味を持っていない。それよりも社会的に最も重要な意味を持つもう一つの逃避のメカニズムを取り上げる
- 個人が自分自身であることをやめること=文化的な鋳型によって与えられるパーソナリティを完全に受け入れること←「私」と外界との矛盾消失・孤独・無力への恐怖も消える⇒自己の喪失←自動人形と同一なった人間=孤独を克服する「正常な」方法←近代個人主義の人間観と矛盾←というか、いかに近代個人主義の人間観が現代社会で実現しがたいものなのか
- 自己とは何か←近代社会における個人の自己も疎外
- 偽の自己←他人・社会の期待の受容/その人が「欲しなければならなく」なるような内的外的圧力にしたがっているに過ぎない←催眠状態・批判的思考の抑圧。その自分の考えが「自分のものではない」ということに気づいていない。
Ex.結婚←本当は自発的に結婚していると考えられている。しかし義務や拘束力に促されて意識的に結婚する人が確実にいる
- 自己の喪失と偽の自己の代置=個人を烈しい不安の状態に投げ込む
- 近代社会において個人が自動機械になった=一般の人々の無力・不安が増大した←だから安定を与え、疑いから救ってくれるような新しい権威にたやすく従属しようとしている
第6章 ナチズムの心理
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- ナチス支持と下層中産階級:なぜ彼らの共感を得たか→彼らの社会的性格に原因:強者への愛、弱者嫌悪、小心、敵意、吝嗇、本質的に禁欲主義、人生観狭小、他者への猜疑、詮索好き、嫉妬深く、嫉妬を公憤として合理化
←下層中産階級をボロクソ
- 下層中産階級の社会性格:1914年以前からずっと同一←嘘くさい
- これら心理的諸条件がナチズムの「原因」ではなかった:ナチズムの人間的基盤を構成←それなしにはナチズムは発展しなかった;この辺の表現が巧み。
どこかの「維新」みたい。
- ヒトラー『我が闘争』分析:権力を求めるサディズム的渇望/大衆に対するサディズム的「愛」/巨大広告同様のプロパガンダ←批判的能力の麻痺/権力欲=自然法則の合理化(他国支配はその国民の福祉のため、社会ダーウィニズム、攻撃に対する防御としての暴力の正当化)/自己否定・犠牲の哲学⇒要するに、ヒトラーの書物の中に、権威主義的性格の2大傾向(権力欲・外部の圧倒的力への服従の憧憬)が確認
第7章 自由とデモクラシー
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1 個性の幻影
- 文化による自発的感情・個性の発達の抑圧の促進:子供の最初の訓練から ;最初期の抑圧される感情=敵意・嫌悪に関係したもの/偽の感情:まったく「自分のもの」ではない感情を教えられる=他人を好むこと・無批判的に親しそうにすること・微笑むこと←当時のドイツだけでは?/典型が性の抑圧(フロイト)
- 悲劇感の抑圧:死の意識と生の悲劇的側面の自覚=人間の基本的性格の一つ→現実の生が軽くさせられてしまっている→生の疎外・死の疎外
- 現代=感情が生気を失った社会:精神病学者の言う「正常」=過度の悲しみ、怒り、興奮をもたないパーソナリティ⇔一致しないものを「小児的」「神経症的」
- 独創的思考も阻害・抑圧:知識・情報を強調する←より多くの事実を知れば知るほど真実の知識に到達するという迷信=知の体系的な獲得の阻害/相対主義
- 意志的行為も阻害・抑圧:これを知るのが一番困難。近代人は己の欲求を知っているという幻影のもとに生きているから=実は欲すると予想されるものを欲しているに過ぎないという真実⇒「私」をもっているようで「私」からも疎外されている←私が私のものになっていないで現実を生きている;自我喪失・自己同一性の喪失
- 自発性・個性の放棄=死:心理的な自動人形=生物学的に生きていても、感情的・精神的に死んでいる。生の運動をしていても、彼の生命は手から砂のようにこぼれていく
- 現代社会の危険性:人間機械の絶望=ファシズムの豊かな土壌←生の興奮・個人の生活に意味と秩序と確実を与えると思われる政治機構・シンボルが提供されるならば、どんなイデオロギーや指導者でも喜んで受け入れようとする素地←大衆化が孕む危険性←まわりくどい
2 自由と自発性←フロムなりの結論・展望
- 自由は不可避的に新たな依存を導くのか?/独立と自由は孤独と恐怖と同じなのか?⇒積極的自由=全的統一的なパーソナリティの自発的行為のうちに存在←積極的自由は自我の実現・自分自身であることによって獲得できる←どうやって自我の実現をできるような社会を創ればいいのか?→全人格が表現できる社会←そんなのできるの?
- 自発性の問題:←心理学上困難な問題。自発性の前提=パーソナリティ全体を受け入れ、「理性」と「自然」との分裂を取り除くこと←人が自我の本質的部分を抑圧しない時にのみ、自分が自分自身にとって明瞭なものとなったときのみ、また生活のさまざまな領域が根本的な統一に到達したときのみ、自発的な活動が可能だから
- 例:芸術家←自分自身を自発的に表現できる個人(哲学者・科学者も)/子供←本当に自分のものを感じ、考える能力を持っている
*しかしこんな人間ばっかりだったら社会成り立たないのでは?ロマン主義的・ナイーヴすぎる人間観・社会観では?
- 自発性を認識できる機会=純粋な幸福の瞬間:風景を新鮮に自発的に知覚するとき・思考中にある真理がひらめいてくる時・型にはまらないある感覚的な快楽を感じるとき・他人に対する愛情が湧いたとき
- 愛=自発性を構成する最も大切なもの:自我を相手のうちに解消するものでも、相手を所有してしまうことでもない(サド・マゾ的倒錯ではない)。相手を自発的に肯定し、個人的自我の確保の上に立って、個人を他者と結びつけるような愛←?具体的にどういう風に愛すること?
- 自発的活動をすること(自分自身でものを考え、感じ、話すこと)←これ以上誇りと幸福を与えるものは無い→活動の結果ではなく過程を重視すること
- 自分自身を活動的創造的な個人と感じ、人生の意味が唯一つあること=生きる行為そのものが人生の意味であることを認める
*こういう考え、正直自分はもつことはできないと思う。
- 自我の実現としての積極的自由=個人の独自性を肯定=平等・尊厳を認めること
- 真の理想:自我の成長・自由・幸福を促進するすべてのもの/仮想の理想:主観的には魅惑的でありながら、実は生に有害であるような強迫的な非合理
- 犠牲:人間は善でも悪でもない。生命は成長し伸展し諸能力を表現しようとしているだけ。生命が妨害されれば、個人は抑圧を感じるだけのこと←環境・社会が個人の形成を左右する
- 民主主義的社会主義:代議制・社会の計画性→国家全体が経済的社会的な力を合理的に支配する計画経済のなかでのみ個人主義が実現可能←ユートピア的。「社会」「計画」が出てきている点は社会学(マンハイム)・ケインズを先取りしているかも。社会福祉国家建設を志向
- デモクラシー=個人の完全な発展に資する経済的政治的諸条件を創出する組織:最大の困難→計画経済と各個人の積極的な共同との矛盾←経済の見方素朴?⇒問題は資本主義とデモクラシーとの関係のあり方
付録 性格と社会過程
- 社会集団の心理的反応研究の方法:社会集団成員の共通する性格構造に注目=社会的性格social character←集団成員の大部分が有している性格構造の中核、集団に共同の基本的経験と生活様式の結果発達したもの:社会過程を理解するための鍵概念
- 教育=既存社会の鋳型にはめること←社会システムから教育を見る/家族=社会の心理的代行者←最初に鋳型にはめる者
感想
- はじめに結論ありきの体裁:実証度が低い←主張を裏付ける具体的事例を分析しているものがほとんどない。あってもソースなし。啓蒙書だからか?結論先走りすぎ。特に7章の自発性。フロムの思いが述べられているだけにしか読めない。もしくは信仰?
- 訳書の体裁:訳注なし・タームの解説なし・索引・参考文献なし→一体誰にこの本を届けようとしたのか?