SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS ANNEX

SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS 別館

フランスのライシテを学ぶために:クロード・ラングロワ「カトリック教会と反教権」

とりあえず、カトリックとライシテの問題に関する基礎勉強は今回で一端終了。


さて、今回取り上げる論文の前に、ピエール・ノラ編集の『記憶の場』について簡単な紹介を。
以下、参考:谷川稔「『記憶の場』の彼方に‐日本語版序文にかえて」(ピエール・ノラ編(谷川稔監訳)『記憶の場‐フランス国民意識の文化=社会史』第1巻、岩波書店、2002年、1‐13頁)。


『記憶の場』Les lieux de mémoire は、120名の歴史家を動員し、130編のエセーを収め、全7巻、5600頁を越え、1984−1992年にいたる、足掛け8年でようやく完成した、「史学史上の事件」と評された一大プロジェクトです。
1993年には歴史部門のグランプリ・ナショナルを受賞、lieux de mémoire という語自体がロベールフランス語大辞典入りするくらいになりました。


このプロジェクトのスタイルとは、「原因より結果」に重きを置く歴史学であり、つまり、ある事件がなぜ起こったか、いかに展開されたか、よりも、その記憶の行方、シンボル化された再利用、神話化された「読み替え appropriation 」に注目するスタイルです。伝統の創出、変容、死滅のあり方に関心を持つ歴史学と言えばいいのでしょう。


こう聞けば、現在の日本の歴史学においても、「戦争の記憶」論や「国民国家(批判)論」などが1990年代から盛り上がっているので、さほど目新しさは感じないかもしれません。ですが、この場合、ホブズボームとベネディクト・アンダーソンの研究への高い評価から出発しているのではないかと。あるいは、アメリカ・オーストラリアで盛んな「パブリック・メモリー」論などが加えられるかと。

ちょっと事情分からないのですが、この『記憶の場』、日本史界隈ではどのように評価されているのでしょうかね?
日本史側による書評とか特集あるのかどうか、よくわかりません。
不勉強です。


ちなみに、編者のピエール・ノラ Pierre Nora は、1931年パリ生まれのユダヤ系フランス人。父は外科医の典型的ブルジョワ家庭出身。ヴィシー政権下で絶滅収容所送りを辛うじて逃れ、10歳(!)で対独レジスタンス「マキ」と行動するという記憶の持ち主です。「非国民」のレッテルを貼られ、抹殺されそうになったマイノリティ体験。
そういえば、確か、ル=ゴフも小さい頃、間接的ながら「マキ」に関わったような。


さて、この『記憶の場』日本語訳(全3巻)は、残念ながら全訳ではありません。
巻末に総目次があるので、全タイトルは確認できます。
実を言うと、中世に関する論文結構翻訳されていないんですよね。これが残念。
興味のある方は、是非原著を。




原著はこちら。ポッシュ版(?というかペーパーバックの辞書みたいな)で3巻になってます。

Pierre Nora dir., Les lieux de mémoire, 3 vols (Paris, 1984, 1986, 1992).


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今回取り上げる論文は、


クロード・ラングロワ(谷川稔訳)「カトリック教会と反教権」(ピエール・ノラ編(谷川稔監訳)『記憶の場‐フランス国民意識の文化=社会史《対立》‐』岩波書店、2002年、159‐202頁)


原題は、

Claude Langlois, < Catholiques et laïcs >, Les lieux de mémoire, part 3, vol.1 (1992).



著者は1937年生まれの宗教史家。EHSS、宗教学部長、CNRS主任研究員。19世紀女子修道会を対象、Catholicisme an féminnin (Paris, 1984). の著者。

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冒頭、アナルコ=サンディカリスト色の強い風刺誌、『アシエット・オ・ブール』の1904年3月19日の風刺画、老婆が子どもに十字架のキリストか、国旗の三色旗かを選択させる絵を取り上げます。折しも1904年7月5日、公教育への修道会の関与一切禁止する法律通過する年です。


これは教育修道会と反教権=世俗派の戦いなのでしょうか?
それはまったく見かけにすぎない!と。

それは、国家の道徳が教会の規範に取って代わり、政府の真理がヴァティカンのそれに替えられたにすぎない。これでは空ろな革命ではないか。共和国は偶像を破壊したのではなく、他の偶像に置き換えたのだと。

子どもたちの未来をあさましく奪い合うところには、もはや自由は存在しないだと。

カトリック vs 反教権派=世俗派という「二つのフランス」が、まぎれもなく存在する。

ここで、20世紀初頭の研究者たちによる、世俗性 (Laïcité) に関する研究を紹介。一部では、当時から世俗派の問題点を指摘していました。
それから、1984年のサヴァリ法案廃案のエピソードなど。今日の有名私学の大半がカトリック系であり、しかも国家から多額の補助を得ている、そうした私学に実質的な自治を認めるべきか否かが問われていました。結果はもうご存知の通り廃案です。


現状として、カトリックは人員不足から、傘下の私学のネットワークをもはや統率できなくなってきており、今や、利用者、つまり生徒の親の管理下に委ねられているとのこと。その他に、信者の激減は、教会をいよいよ右翼の側にしっかりと根付かせ、左翼的カトリック「活動家」を衰退に向かわせることになったとも指摘しています。


そもそも、カトリックと世俗派の2分現象は、1685年ナントの勅令廃止にまで遡り、これによりカトリックが支配勢力になったのだと。19−20世紀を通して、カトリックはほぼ独占的地位を占めます。フランス人の圧倒的多数が信徒であるだけでなく、制度的にはもとより、記念建造物などでもつねに目に見える形でその存在を誇示してきたからだと指摘。


これは確かに。フランスといえば、大半は革命か教会の建造物ばかりが目につきますよね。空間が革命と教会で占められている。時間に関してもそうですね。1年の大半が未だに典礼暦で動いていますし、それに革命の記憶に関する祝祭日が入り込んでいる形になっているかと。


そして一方、1962年の第2ヴァティカン公会議以降、さらに1968年5月革命によって、カトリックは変わったのか?というと、実は逆の現象も。
つまり、カトリック信者としてのアイデンティティの覚醒も起こった。これは、アカデミックな歴史の圧倒的な優越と、その帰結としての宗教史の「世俗化」に対する反動によってもたらされたと解説。


うーむ、フランス・カトリック歴史修正主義ですか。


現在、統計的に見ると、イスラム教はフランス第2位の宗教。フランス全土にあって、ムスリムの伝統を拠り所としている人は300万〜400万(1992当時)。

なのに、長い間、カトリックと世俗派がペアを作り、我が物顔で振舞ってきたため、真の意味での宗教的多元主義がまったく形成されなかったと。
イスラムミナレットを備えたモスクがフランス中の町や村で教会の鐘に取って代わろうとしているという思い込みがあるとも。長らく続いた宗教的記念建造物のカトリックによる独占に終止符が打たれることになるからだと。

フランスの教訓は明白である。フランスの空間はカトリックか世俗派か、どちらかで占められている。他の中間的選択肢は存在しないのである、と。


「教権的 clerical」 vs 「世俗laïc」 の対立語化はいつ頃からか、として、1877年、ガンベッタの発言としています。(実際は第2帝政から出てきていたが、派生語化まではいかなかった)。

第3共和政にとって、教権主義を告発することは、1789年の大革命という、誰もが疑わない歴史と、1870年の普仏戦争という後ろめたい敗北を援用し、旧制度への回帰と社会主義の再来の脅威を同時に訴えるのに都合がよかったのだと。


第3共和政の「出自」の脆さについてはあちこちで研究がされていますね。『記憶の場』の中にも多数あります。
ある種、敗北の屈辱を癒し、対独復讐を煽ることに拠って立つ、「革命原理主義」か。


とはいえ、教権主義はたんに政治的敵対者が見つからない時の便利な代替物にとどまるものではない。


ちょっと知らなかったのが、以下の指摘。
現行公教育制度を規定した、あのフェリーたちがなぜ教員だけでなく、カリキュラムにまで学校の世俗化のプロセスを重視したのか?
フェリー法は、ご存知、宗教教育の公教育からの排除を定めた法です。学校のカリキュラムから教理問答がなくなったことはいかに画期的だったか。
しかし、今日この帰結は、木曜日(後に水曜日の午後)は宗教教育のために休校として確保されることになってしまっている。
「振り替え登校日となる土曜日の週末を子どもと過ごす権利」を保護者が主張しても、裁判所はこれを退けている。


それで水曜日リセやコレージュのガキンチョが昼間街にあふれていたのかと。
カトリックのしぶとさ。


フェリーが求める教師とは、保護者を決して動揺させない、にもかかわらず、学校は祖国、労働、科学といった共和国の新しい価値観を伝達するものでなければならない。
そこでは、地理=実物教育によって宗教への関心に取って返させることが目指されました。
あの、G・ブリュノの『2人の子どものフランス巡歴』の意義を考えてみよと。

ただ、問題は、公教育における教会人は少数派だったが、教育修道女は逆に多数いたということ。
男子校は教員の入れ替えはすでに1860年から始まっていましたが、他方、女子校教員は、世俗の女子教員不足のため、遅々として進んでいなかったのです。

これは前に紹介した通り。


予算の推移も。
国家予算の推移で見ると、1875−79年では、宗教関連予算年5500万フラン、公教育4600万フラン。
1885−89年になると、宗教予算年4800万フラン、公教育1億3000万フラン。
いかに共和主義者たちが重視していたかわかるだろうと。


学校の世俗化の進展の一例として、教会幹部が公教育高等評議会から消滅していくとか、大学における神学部の衰退が。
さらに、社会全般における世俗化の進展の例として、修道女の女子監獄からの撤退を挙げています。
1839年の監獄改革以来、修道女が組織的に監獄に送り込まれていたのだそうです。対照的に、施療院では修道女はポスト確保し続けると。


さて次に、19世紀後半の動きを紹介。

1884年、離婚法が復活。
一方、聖母被昇天修道会(アソンプシオン修道会)は、1883年、日刊紙『ラ・クロワ』La Croix 創刊。


なぜ、学校がかくも共和派の布陣の中心になるのでしょうか?
それは、単に教権派と競い合うに相応しい戦略的拠点であるだけでなく、カトリックと世俗派が果てしなき闘いをさだめられた二つの領域に直接関わっているからなのだと。すなわし、科学と道徳です。


この頃、カトリック側の反撃として、「カトリック科学」標榜が挙げられると。
これは、科学実践を再統合するための神学の再建のための意思表明で、科学が無神論的である必要が無いことを必死に証明しようとしたものでした。
幸いなことに、この陣営にパストゥールを置けたことは強みだったと。

一方、衛生学教育は、反カトリックで押していきます。例えば、「聖職に携わる人はめったに風呂に入りません。」とか、性病はカトリックが多いという医学言説を学校で広めます。そう、宗教は衛生学を教えないのです。

ですが、この時期、カトリックの青少年クラブは最盛期。少年達の身体的発育に意を注いでいました。サッカー、バスケをフランスに根付かせたのはこれらのクラブとのこと。別な教育回路を開拓したと。


1860−1910年が最も対立が激化した時期で、例えば、パンテオンは、1885年、ヴィクトル・ユゴーの埋葬で世俗派勝利確定し、次はエッフェル塔サクレ・クール(シャン=ド・マルスとモンマルトル)の闘いで、1873年サクレ・クールを「国民的祈願」の教会として建設すること決定しますが、これは反動的風潮の時期で、第2帝政批判・普仏戦争敗北の癒しとして決定したと。ですが、パリ・コミューンの犯罪を贖うためだとの議論が。モンマルトル(殉教者の丘)だけになおさら。それに対して、かつてミシュレが、「大革命唯一の記念碑」と呼んだのがシャン=ド=マルス。そこにエッフェル塔が建てられるということの意義は押して知るべしと。


この時期、カトリック系の定期刊行誌が活気を得ます。『ラ・ボンヌ・プレス』(聖母被昇天会)、『ラ・リーヴル・パンセ』など。
でもやっぱり『ラ・クロワ』が一番で、論争大好き。特に初等教師をターゲットにした論戦をはったとのこと。

ただ、カトリック的利害だけをもとに人々を結集しようという幻想が強かったとも。カトリック系学校も次第に私立をほぼ傘下に入れてきており、西部フランスのように、ライヴァルが根付きにくい地方的拠点が存在したこと、女性が教会に忠実なままだったことなどが指摘されています。そもそも、女生徒の40%が修道女によって教育されたといわれています。そして聖職者と修道士が掌握する私立コレージュのネットワークの存在など。


では大戦期はどうだっか?
大戦は返って両陣営の結束させました。

第1次大戦後、塹壕体験の共有が対立を減殺したのだと。

両大戦間期、世俗派が最も組織化された時代ですが、一方で1920年ローマ教皇ジャンヌ・ダルクを列聖するし、他方、議会はジャンヌを「祖国の聖女」として認定します。
1929年、ジャンヌ500周年が行われます。しかし、反撃が1930年、全国教員組合によるジャンヌの価値下げキャンペーンとして出てきます。(「ドンレミの偶像」)。


ところで、あの大革命における聖職者の公務員化の行為は、世俗化の代償としての聖性の転移を明らかにしました。
それまで、カトリックは強力な「動員」能力を持っていましたし、集団に教義とモラルを教化する強力な手段を持っていました。
それに対して、真の革命的熱誠を呼び起こすために、カトリックと同じ「仕掛け」がいるということを、革命側の人間たちは認識します。
プロテスタント牧師ラボー・サン=テティエンヌは、「国民教育というものは、人間を揺りかごのなかではもちろん、生まれる以前からも掌握することを意味している。まだ生まれていない子どももすでに祖国に属しているからだ。」

今聞くと、空恐ろしい文言です。


当時はカトリック儀礼を共和主義体制のために転用しようとする見方が有力でした。

しかし、コンドルセこれを徹底的に批判します。

「もしあながた学校を国民の寺院とよぶなら」、あなたは狂信主義の基礎となっている権威の原理を教育に持ち込むことになるだろう。

「フランス憲法も、人権宣言もともに、いかなる階級の市民にたいしても、崇拝と信仰の対象として天上からくだされた戒律のように呈示されるべきではない。…自らの理性にのみしたがうのではなく、外からあたえられたものを自分の意見にしてしまう人々がいる限り、すべての鉄鎖が打ち砕かれたとしても無駄であり、これらの命令された見解が有益な真理となるであろう。そのとき、人類は2つに分かたれた階級しか残されなくなる。すなわち、自らの理性にしたがう人々と、信仰にしたがう人々であり、主人の階級と奴隷の階級である。」


コンドルセ凄いです。
理性の光と信仰の闇の間には、いかなる妥協もありえないといっているのですね。


コンドルセの「革命的熱狂」への非難はさらに続きます。

彼らは憲法の条文について教え込もうというのであろうか。

「あたかも、普遍的理性の原理にかなった教義として、それ(憲法の条文)を教え込むべきだと考えているかのように。あるいは、憲法に対する盲目的熱狂をあおりたて、市民が憲法を正しく判断できなくなるよう仕向けるかのように。またあたかも、市民が崇拝し信仰すべきものはこれなのだ、というかのように。つまり、彼らが生み出そうとしているのは一種の政治宗教なのである。」

コンドルセは、じかにラボー・サン=テティエンヌや教育を管理することで市民を養成しようとする者達に激しく論難します。
そうした輩は、

「時がたっても消せないようなイメージを植えつけるために、人間を幼少の段階から囲い込んで盲目的感情によって国の法律や憲法に縛りつけ、人を理性に導くのではなく想像力と魔力と情熱の混乱に導くのだ。…人々を啓蒙するのではなく幻惑すること、すなわち真理の名において人々を籠絡することを認めるのは、…あらゆる宗教的勧誘の常套手段である狂信的錯乱を聖別することになる。」


コンドルセの考察は、第3共和政の世俗教育政策に対しても示唆に富みます。
つまり、もし政治の領域が合理的な基礎に基づき完全に自律的であるなら、いかなる形態にせよ宗教的ことがらを直接管理することなどありえないということです。
コンドルセは、宗教に取って代わること(世俗宗教)ではなく、むしろ宗教の撤廃(世俗化)を提起したのです。

結局、歴史はこの方向には進んでいかなっかたのですが。


ナポレオン期について。

1801年のコンコルダートで、大学局が設置されます。国家のもとに公教育を管理するための新しい機関です。以後ここでカトリックと世俗派が対立していくことになります。

ナポレオン帝政の狙いは、「涜神的でない哲学者であれ、そして狂信的でない宗教者であれ」(ポルタリス;ナポレオン法典とコンコルダートに尽力した法律家)の言葉に尽きます。
ミシュレは、二つの原理=大革命とキリスト教だとも。(『フランス革命史』)


次に、普通選挙の導入の帰結。
これは、カトリックの新たな政治化へ進ませたと。共和派が普通選挙を使いこなすまでにどれほど苦労したかはよく知られています。
が、カトリックの新たな政治文化のプロセスはあまり知られていないのだそうです。
数少ない例として、1880年ごろには、アン県の研究によると、政治化のプロセスが完成して、カトリック信仰、教皇庁との密着、保守派への支持という立場を一つに結びつけ、世論の一角を占めるようになったということが明らかにされています。


教権主義とはこういうことであると。

つまり、政治活動に介入するために古い伝統的な知識を動員しようとする願望である。それは結果的に、自己の活動の正統性を確保しようとして、もう一つ昔の記憶に準拠することになってしまうのだ。


最後にまとめ。
自由の分配はどこに向かうか?

世俗派には1789年の自由を与え、教権派には宗教と教育の自由が振り分けられる。
このあまりにでしゃばりなカップルのマイナス面は、「絶対的」共和国は正統性をもつ反対派の存在を許せないという点。
プラス面は、ファシスム的なウィルスに対する究極的なアレルギー反応の存在だろう、と。


最後の一節はどうなんでしょうね?
じゃあ、戦後、社会党などの左翼の台頭とはなんだったのでしょうかという気もしてきます。
個人的には、ナチス期のフランスのカトリックと戦後、彼らの姿勢表明というのを見ないとなんとも判断しかねます。


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前の2冊とはまた違ったニュアンスで、教会とライシテの問題に切り込んでいる論文ではないかと思います。

この問題は、本当に色々示唆に富みます。
もちろん、自分の研究にもですが、それ以上に、他人事に聞こえない問題が盛りだくさんです。


また機会を見つけて、『記憶の場』からいくつか論文を紹介していきたいと思います。