ジャン・ルクレール『修道院文化入門‐学問への愛と神への希求‐』
珍しく本業系でも。

- 作者: ジャンルクレール,神崎忠昭,矢内義顕
- 出版社/メーカー: 知泉書館
- 発売日: 2004/10
- メディア: 単行本
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中世修道院霊性研究の泰斗。ベネディクト会士。
彼の作品で唯一の邦訳。共著ではすでにあり。
これも中世で宗教やる人は必携。
高いけど。
で、今回取り上げる本は、タイトル通り、中世修道院文化理解のための基本文献。
冒頭、修道院神学とは何か、及び修道院文化における学と何かについて、このようなことから入ります。
…なによりも、教えるのは神である。したがって、祈らねばならない相手は神である。この視点からすると、道徳的な生活と修徳修行なくして神学が存在しないのと同様に、祈りなくして神学は存在しない。祈りは、結果として、神との一種の接触、神への深い愛情を呼び覚ますことになる。
…主なる神が出発点であり、すべての段階であり、終わりであり、唯一の目的だからである。重要な言葉は、もはや quaeritur (問われる)ではなく、desideratur (希求される)であり、sciendum (知られるべき)ではなく、experiendum (体験されるべき)である。
9頁
修道院文学には2つの要素があり、それが修道院文化の継続性と同質性を保証する定数となると述べます。すなわち、修道院著作の「文学的」性格と神秘主義的な方向性であると。
教育は、語ることよりも、むしろ執筆すること、いや、文章の技法、文法学 grammatica に従って上手に書くことによってなされる。それは、この世において主キリストと人格的に一致することを目指し、後の世では至福に入ることを目指す。それを特徴づけるのは、熱烈な希求、終末論的な持続的緊張である。
11頁
さて、中世修道院文化の源泉の一つたる、『聖ベネディクトゥス伝』・およびベネディクトゥスの『戒律』において、文学の知識と神の探求が表れていると言います。
「聖なる読書」lectio divina が修道士の主たる関心であり、その中には瞑想 meditari aut legere も含まれています。
だから結果として修道院は書物を所有し、それらを書くこと・読むことがき、それができないなら学ばなければならなかったのです。
ここから修道士が「読む」とはどういうことなのか、解説。
通常、人々は、現代のように主として目で読むのではなく、見たものを唇で発音しながら語り、発音された語に耳を傾けながら、「書物の声」voces paginarum を聞いたのである。人々がもっぱら行うのは、まさしく聴覚による読書である。ゆえに「読むこと」legere は、同時に「聞くこと」audire を意味している。
20頁
ベネディクトゥスは、「黙して読む」 tacite legere や「自分に読む」 sibi legere と言い、
アウグスティヌスは、「沈黙のうちに読む」legere in silentio と「明瞭に聞き取れる読書」clara lectio とを対比させます。
しかし、ほとんどの場合、「読むこと」legere と「読書」lectio が特定されずに用いられる場合、それはある行為を指しており、歌うことや書くことのように、身体全体と精神全体を動員するものだったと言います。
古典古代の医師たちは、散歩や競争や球技と同様に、読書を体操として勧めたというそうです。
そしてこうした読書が瞑想と深く関わるわけですが、では「瞑想」とはどういうことなのか。
世俗的な用法において、meditari という語は、一般的に「思い巡らす」「省察する」を意味し、「考える」cogitare 「熟慮する」considerare と同じ。
ですが、これら以上に、ある実践的な面での方向づけを含み、道徳的な方向づけを含んでいるのが meditari なのです。
それは、あることを実行できるように考えることであり、「そのことのために準備する」「そのことを精神のうちに前もってイメージする」「そのことを欲求する」「何らかの仕方でそのことを前もってなす」つまり「そのことのために自らを鍛える」ことを指すと述べます。
「瞑想」という語に訳されるのは、ヘブライ語の「ハーガー」haga で、これも基本的にはトーラーと知者の言葉を、一般的には低い声で発音し、自分自身にそれらを唱え、口で呟きながら、学ぶことを意味していました。
これは、現代のフランス語で言う「暗記すること」(apprendre par coeur = 心で学ぶ)ですが、古代の人々に従って、「口で学ぶ」と言うべきだろうとのこと。
なぜなら、口こそが「知恵を瞑想する」からであり、詩編36(37)・30に「義人の口は知恵を瞑想するであろう」Os justi meditabitur sapientiam とあるとおりだからです。
瞑想とは、声を殺した「呟き」にすぎない。内的な、純粋に霊的な呟きにすぎない。
瞑想することとは、あるテキストを読み、それを「心で」学ぶことである。「心で」学ぶということは、この表現の最も本来的な意味、すなわち、身体、記憶、知性、意志を伴う自らの存在自体によって学ぶことである。口がテキストを発し、記憶がこれを固定し、知性がその意味を理解し、意志が実践しようと欲するからである。
25頁
また、もう一つの修道院文化の源泉たる大グレゴリウスの章では、謙遜と悔恨についての説明があります。
この人間の悲惨という体験の最初の結果は、この意味を理解することのできるキリスト者にとっては、謙遜 humilitas である。言い換えるならば、世俗と、われわれ自身と、われわれの罪からの離脱であり、われわれは神に属することが必要だという意識である。このようなものが「悔恨」compunctio であるが、これには二つの面がある。一つは「怖れの悔恨」であり、もう一つは「希求の悔恨」である。本来的には compunctio という語は、世俗的な用法では、医学用語であった。刺すような痛みや身体的な病苦を指している。しかし、キリスト教の語彙において特に用いられた意味は、その本来の語義との接点を失っていないが、より豊かで、はるかに高いものである。compunctio は魂の痛みとなったのである。
42頁
さらに、修道院文化の2源泉についてこう述べます。
中世の修道院文化は2種類の源泉を有している。一つは、文学的な性格をもつものである。すなわち、書かれたテキストで、それらを、瞑想とともに読むこと、そして研究することによってその内容を同化吸収しなければならない。もう一つは霊的な体験に属するものである。これらの体験のうちで最も重要なものは、調和した総合のうちに、他のすべての体験を互いに和解させることを可能にし、この体験の目的地へと達することを希求させるものである。修道院文化の内容は、二つの語が象徴し、総括しているように思われる。すなわち、文法学と終末論である。一方で、神へと近づき、神から受け取ったものを表現するためには文字が必要である。他方で、永遠の生命を目指すためには、絶えず文学を超克しなければならないのである。この超克について最も強い、そして頻繁になされた表現は、永遠の生命に関するものであった。
71頁
修道士の現世蔑視の思想というのは、この天の希求の裏返しでもあるということが窺われます。
しかしですね、学者修道士の書物読むと、学術書読んでいるのか、宗教書読んでいるのか、時々わからなくなる自分がいて困ります。
さて、修道院文化の文学的な源泉は、主たる3つに還元されるというわけですが、それは何かといえば、聖書、教父の伝統、古典古代の文学。
ここでスコラの読書との違いを指摘。
スコラ的読書とは、講読 lectio、問い quaestio、討論 disputatio を指向する。
一方、修道院の読書は、瞑想 meditatio 、祈り oratio を指向する。
スコラは学知と「知ること」を指向する。
修道院は知恵と「味わうこと」を指向する。
修道院においては、「聖なる読書」という行為は文法学から始まり、「悔恨」と終末論的な希求に至るのだといいます。
ですから、修道院の読書は瞑想と密に関係するわけです。そして瞑想的な祈りとは、修道士の身体と記憶の仕方に独特の刻印を施すといいます。
人格全体を占有し、巻き込み、その人格に聖書を根づかせ、そのとき初めて、聖書はその成果を結ぶことができるのである。このことは非常に重要な想起という現象を説明する。言い換えるならば、引用や暗示が自発的に思い出されることであり、語が似ているということだけで、労せずして語や章句が互いに呼び起こされるのである。
99頁
で、けっこうはしょりまして、個人的にちょっと意外だったことが、修道院で最も読まれ註解された書物が旧約の雅歌だったということ。
てっきり詩編だと思ってました。
ここでまた、雅歌註解のスコラ学と修道士での違いについて解説。
スコラ学的雅歌註解は集団的であると。
それは神と教会全体の関係について特に語るからであり、強調されるのは神の真理についての啓示である。
人間は、信仰と、神秘を知ることによって、また、受肉による神のこの世における現存に基づいて、この啓示を所有しなければならないのだと。
一方、修道士の雅歌註解は、神と個々の魂との関係、魂におけるキリストの現存、愛徳によって実現される霊的な結合であると。
「雅歌」は神を求める詩。なので修道生活=神の希求には好まれた。
そして theoria とは何かについて。
theoria とは、「観想」と訳されるべきものであると。
ベルナールは雅歌を theoricus sermo と呼んだ。「理論的な言説」という意味ではない。「観想的な」テキストだと。
ですから、theoria mysteria, theoria studia =「理論的な研究」ではなく、「祈りへの愛」と訳さなければならない。
同様に、修道院文学における philosophia という語についても注意が要ります。
philosophia とは、ギリシア教父たちにとって、物事の価値や棄てるべき現世の虚しさについての実践的な判断を指し、その全生活によってこの放棄を明らかにしている人々に適用されていました。
中世の修道制でも、これは認識のための理論や方法ではなく、活きた知恵、理性に従う生き方を指していたといいます。
Du Cange で philosophiari を引くと、 「フィロソフィァする」=修道生活を送るとあるそうです。
ただ、目を引いたのが、彼はスコラ説教に対して結構評価低いんですよね。
曰く、極めて明晰で論理的な説教で、教理的で、どれ一つとして、今日なお読むに値するような卓抜した作品ではないんだというのです。
この感想が、恐らく中世説教を研究の対象から長らく見捨ててきた原因の一つなのでは。
この後、修道院文化における聖書釈義の特徴という非常に重要な問題に触れてますが、ここではカット。
修道士たちが好んで語るキリスト教的な諸現実の一つが秘蹟の世界でした。
他のすべての出会いの根源である神との最も確かな接触が達成されるのは秘蹟においてだったのだと言います。
だから祭壇秘蹟論なるテクストを多くの人が書き残したのか。
そして締め。
典礼において、学問への愛と神への希求は、完全に一致するのである。
322頁
以上、気の向くままに紹介してみました。
値は張るし、古い本ですが、中世の修道院文化を知る上では必読ですし、思想史の面からもいい入門書なのでは。
原著はこちら。
英訳。

The Love of Learning and The Desire God: A Study of Monastic Culture
- 作者: Jean Leclercq O.S.B.
- 出版社/メーカー: Fordham University Press
- 発売日: 1982/01/01
- メディア: ペーパーバック
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