SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS ANNEX

SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS 別館


以下、谷川稔「「歴史と記憶」を考える‐方法としての『記憶の場』‐」(服部春彦・谷川稔編『フランス史からの問い』山川出版社、2000年、317‐336頁)より。

  • 歴史的事実としての「日の丸」:源平時代から軍扇で用いられていたが、基本的には船印の域をでなかった。1854年薩摩藩島津斉彬の建言で、「白地に日の丸」を公式の船印と定めたのがはじめ。明治政府も1870年、太政官布告の商船規則で今日のデザインや規格が画定。いずれも対外的に必要に迫られた場当たり的な制定。それが以後戦場で使われることで旗幟となっていく。その意味で日本軍国主義の象徴という見方はあながち間違いではない。
  • 君が代」の来歴:歌詞の原型は『古今和歌集』『和漢朗詠集』時代に遡りうるが、直接的には1869年、薩摩藩砲兵隊長大山巌が薩摩琵琶歌『蓬莱山』から「君が代」を選び、イギリス人軍楽隊長フェントンに作曲を依頼したのが嚆矢。フェントンから日本には儀礼用の国歌は無いのかと聞かれたのがきっかけだという。ただし、彼がつけたヘ長調の旋律が不評で、1880年海軍省の依頼で宮内省雅楽課林広守が作曲し直した。それをドイツ人「お雇い教師」エッケルトが4声体に編曲したものが今のやつ。法的に国歌と制定されたことは、1999年8月9日の「国民・国歌法」までなかった。ただし、作曲当時の紆余曲折とは別に、その後「君が代」の「君」が天皇意味するものに変化し、日本国民の集合的記憶の中に定着していったことは事実。


*両者形成過程の共通点:外圧(?)に直面した幕末・明治政府の急拵えという、際立った恣意的・人工的性格。それらは後の日本を生み出す契機となるような特定の歴史的記憶(国民的体験)にほとんど基づいていない。
これはフランスの三色旗とラ・マルセイエーズフランス革命の記憶と固く結びついていること好対照。


*1999年君が代・日の丸法制化。同年春、広島県世羅高校校長が自殺。文部省による日の丸・君が代強制の通達と反対派の教職員組合との板ばさみの果ての選択。
この事件に「便乗」して、1999年8月9日、つまり、長崎原爆投下の日に、「国旗・国歌法」が成立する。


たいした国民的議論にもならず、「粛々と」法制化されたような記憶がある。靖国や歴史教科書問題の喧騒ぶりとはえらい違いでは。
そもそも、君が代など、歌詞の意味や由来をほとんど知られないまま、「国民のあいだに定着した*1」稀有な国歌。
新しい国旗・国歌の成立も含め、国民による検討という手続きを経て、法制化に向かう議論になっていたか?



フランス史からの問い

フランス史からの問い

*1:無論、定着させたのだが。誰が?