SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS ANNEX

SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS 別館

フランスのライシテを学ぶために:谷川稔『十字架と三色旗‐もうひとつの近代フランス‐』

今度は日本人の近代フランス史研究者から。




話の枕として、まず、1984年、サヴァリ法廃案と1994年のバイルー法廃案の話で始まります。1984年のサヴァリ法案とは、公教育の一元化を目指したもので、これにカトリック側が大反発。社会党モーロワ政権が崩壊します。そして1994年のバイルー法は、私学助成制限撤廃を目指したもので、保守党バラデュール政権が提出したものです。


そもそも、バイルー法の契機とは、1850年ファルー法条項撤廃を目指すのが目的でした。ファルー法は、王党派公教育相ド=ファルー伯によって提出された、カトリックの公教育への復権を推進したものです。

現代のフランスの教育制度は、1881−1882年成立のフェリー法で定められ、これが現在の公立校体制を規定しています。ゆえに左翼=世俗派による一大抗議になったわけです。反ファルー、親フェリー、「世俗性・平等・連帯」がスローガンでした。


さて、大革命以後のフランス政治史とは、「自由・平等・友愛」の社会的共和国を目指す方向で「歴史」を書くのが「王道」だったわけです。それは、1830年7月革命、1848年2月革命と6月蜂起、1871年パリ・コミューン、20世紀では人民戦線、レジスタンス、1968年5月革命と、ラディカルな社会運動の相次ぐ一大パノラマ、一種の革命神話に彩られたものです。


しかし、その背後にはもう一つのフランス、つまり、カトリック的フランスの解体の歴史があるわけです。そこで著者は、フランス革命の「革命性」とは:伝統的な日常生活のリズムを断ち切ろうとする前例の無い試みにあったのではないか、という問いから、カトリックと共和国の歴史へと探求のメスを入れていきます。


実を言うと、革命時、聖職者は革命に協力的でした。1789年11月2日、修道院を含む全教会財産の国有化を決定しましたが、そもそもオタン司教タレイラン自身の提案によるものです。


だが、教会と国家の決定的な対立の芽は、ヴォヴェルでも取り上げた、1790年、聖職者民事基本法です。これはまず教区の再編統合と、教会の管理を全体として各地方行政当局に委任することを規定したものです。大転換でした。なぜなら、旧体制では教会が統治網を担っていたのですから。


そしてカトリック側にとって、何よりも大問題が、聖職者の公民宣誓=憲法への忠誠宣言を義務付けたことです。聖職者を公務員にするための、要するに踏み絵です。当然猛反発です。ヴァンデの乱など、反革命の呼び水の一つがこの公民宣誓にあるわけです。


公民宣誓の意義とは、聖性の喪失、公務員化であり、それにより信徒の畏敬の対象にはならなくすることにあります。


さらに、1792年、戸籍の世俗化・離婚に関する法令が発布されます。まさにガリカニスムの根幹をひっくり返す法令。つまり、教区簿冊・結婚の秘蹟を奪い取ったことになります。こうして、教会による「村の政治」のヘゲモニーが奪われていくことになります。これこそが重大事件であると。というのも、この措置は、社団国家解体と社会システムの世俗化を告知するものであり、以後、結婚や家族の正統性を規定するのは民事契約=世俗国家のみということになるからです。


この公民宣誓により、聖職放棄・聖職者妻帯が強いられていくわけですが、これはつまり、信徒の前で「背教」と「涜神」のセレモニーを行わせることに他ならず、まさしく聖職者の死を宣告する儀式であったと評しています。


カプララ文書については割愛。一番本書で気合の入っている箇所です。ヴォヴェルと違い、内容を詳しく取り上げています。と言いつつ、ここでは割愛。長いんで。実際に読んだ方が面白いかと。

この文書の情報だけ挙げておきます。これは、別名聖職者の「集団懺悔録」とも称されるものです。ジャン=バティスタ・カプララ枢機卿(別名「ジャコバン枢機卿」)が、1801年のコンコルダートを受けてフランスに派遣されます。これにはナポレオン1世の指名がありました。1801−1808年、フランスに在任し、「パリの教皇」として君臨します。この、彼の残した聖職復帰嘆願審査関連書類がカプララ文書です。5000部以上の嘆願書で、総数2万枚にも上るテクスト群です。



さて、文化革命としてのフランス革命という章では、時間と空間の世俗化について紹介。これはヴォヴェルとほぼ同じ。地名変更と革命暦の導入の話。しかし、フーシェが還俗僧だったということ忘れてました。ほんと、あいつすげーな。


時間・空間の次は何か。教育です。1792年8月までに、教会施設での公教育は一切禁止されます。「公民」の創出です。
当初、二つの教育プランがありました。一つはコンドルセのプラン。知育中心主義で、教育の権力からの独立=イデオロギー教育の拒否、教育の機会均等、無償教育を提唱。はっきり言って、今の我々から見たら素晴らしいプランだと思いますが、当然ジャコバン派は容認できません。コンドルセが獄死する辺りがなんとも。もう一つが、ミシェル・ルペルチエのプラン。徹底した徳育中心主義です。国民学寮案なんていうものを出します。これは、5−12歳までのすべての子どもは国民学寮に収容し、「共和国の鋳型に投げ込む」ことが必要との観点から、同一の服、同一の食事、体育、徳育、労働実習を中心とした共和主義的国民教育を提唱するのです。はっきりって怖すぎです。が、ロベスピエールが喜ぶわけだ。


著者は、過度に厳格な道徳主義への期待、その教育への適用がどのような帰結をもたらすか、20世紀末の我々はよく知っている、と。
まったくです。


それから理性崇拝の祭典。これは一連の非キリスト教化キャンペーンの儀式化であると。


こうした一連の「習俗の革命」は、果たして達成できたのでしょうか?。カトリックには大打撃でした。3万人の聖職者が亡命・放棄し、聖職者養成機関が10年以上も閉鎖されたのです。帝政期、復古王政期でも復活できず。そしてこの頃から、「女は教会、男は居酒屋」のソシアビリテが形成されていくとのこと。


ですが問題が。

1795年、95年憲法発布、公教育組織法成立(ドヌー法)します。これは、初等教育有償、中高等教育との間に断絶、重点は中央学校の整備=エリート主義的複線教育体系の確立を準備しまあす。ナポレオンの学制改革は、中等学校=「リセ」、超エリート高等教育機関グランド・ゼコール」への道を開きました。他方、初等学校はほったらかしです。初等教育の世俗化放棄が、今世紀まで続く反教権闘争の大きな火種としてここにあるのだと。


では、19世紀に目を向けましょう。
1801年のナポレオンとローマのコンコルダートから、状況は変わっていきます。そして1814年、第1王政復古により、カトリック、待ちに待った報復の機会を得ます。さらに1817年、第2王政復古。ただ、ナポレオン法制の枠がブレーキとして、反動の抑制に機能します。ただし、1824−1830年は「カトリック反動」。ユルトラ王党派、アルトワ伯シャルル10世が君臨する時期です。


とはいえ、カトリック反動は長くは続かないのは承知の通り。1830年、7月革命は、「カトリック反動」への拒否反応でもあったわけです。この意味で、革命・ナポレオンは機能していたと。

ここで、小説を史料として紹介されます。ちなみに、バルザックスタンダール復古王政から7月王政期、マルセル・パニョルエミール・ゾラマルタン・デュ=ガールは第3共和政期を舞台にしています。この第3共和政期の作品には学校教師に極めて重要な役割が与えられていて、バルザックなどはむしろ田舎司祭が重要な役回りを演じるんだとか。


そうだったのか。言われてみれば。まったく気がつかず。


さて、教育の話に。7月王政期の1833年、ギゾー法が成立します。これにより、各市町村ごとに1校公立初等学校、各県ごとに1校師範学校設置を義務化されます。7月王政は、カトリックの非国教化を目指し、ギゾーをはじめプロテスタントを多く戴く金融ブルジョワ王政でありました。この時期、産業革命、資本主義社会への移行開始、工業化と都市化が深刻な社会問題として発生しつつある時代で、ロマン主義福音主義、初期社会主義が共通事項になっていく時期でもあると。


次に1848年2月革命。臨時政府、「宗教・公教育担当大臣」元サン=シモン主義者イポリット・カルノーを登用。初等教育の無償・義務化確認します。ここでついに、、初等教員=「新しい共和国の使徒」と位置づけられます。ですが時期が悪かった。普通選挙で共和派敗北してしまいます。これにはカトリックによる村の扇動がありました。ですから、1848年6月30日、カルノー法が提出され、初等教育の「無償・義務化」を目指すのですが、議会多数派は共和主義者ではありません。結局時流に合わず辞任、カルノー法廃案。

そうして、大統領ルイ・ナポレオンが登場、バロ内閣組閣し、教育相、王党派ド=ファルー伯が。こうして、1850年3月15日、ファルー法成立し、中等教育の自由化、初等教育における宗教教育の尊重、初等教員資格に聖職者資格の読み替え容認などが確認されます。これは、中等教育の自由化=大学局の監督下にあった公立学校一元体制を廃止し、私立校との併存体制を取ることを意味しています。


ファルー法以後、教師追放続出です。言ってみれば「赤狩り」です。この辺の状況知るには、フロベール『ブヴァールとペキシェ』がお薦めとのこと。


第2帝政期に入ると、カトリックの公的な信仰の地位回復され、巡礼熱など、信仰の復活現象が見られる時期になります。しかし、亀裂も出てきました。1859年、イタリア統一を支援してオーストリア軍をナポレオン3世撃破、全土の教会で「テ・デウム」要請します。しかし教会は拒否、「デ・プロフンディス」を歌います。レクイエムです。おかげで帝政は教会を粛清に。公教育相に共和主義者ヴィクトル・デュリイを登用します。

こうした亀裂が進みましたが、すぐに普仏戦争。さらば「怪帝」。ようこそ第3共和政と。


第3共和政下の学校と教会はどうだったのか。この時期、「単一にして不可分のフランス」が標榜されます。1880年代に最も意識的になります。革命100周年を控えた第3共和政期は、あらゆるところで共和政の「記憶化」がはかられます。バスチーユ襲撃の7月14日を建国記念日にしたのもそうですし、1879年、ラ・マルセイエーズを国歌にしたり、三色旗の国旗制定もこの時期。

それだけ、第3共和政は、自身の出自に対する脆弱さを感じていたということです。普仏戦争に負けて、さらにパリ・コミューンを鎮圧してできた政権ですからね。


これに一役買うのが、歴史学。建国神話創出に進んで参加します。1870年代、ガブリエル・モノー、エルネスト・ラヴィスが登場し、1881年には学術雑誌『フランス革命』創刊され、1886年にはソルボンヌにフランス革命史講座設置、1888年にはフランス革命史学会設立と。


神授王権がカトリック教会によって聖別されたのに対して、共和国の建国神話は「科学的」歴史学によって聖別されたと。


そして1889年、フランス革命100周年、パリ万国博覧会開催され、建国神話創生の頂点に。エッフェル塔・鉄は、共和国の威信をかけた世俗建築として登場します。というのも、当時モンマルトルにサクレ・クールが建造中だったからです。


まさに、鉄vs石、共和国vsカトリックが、建築=空間の世界でも展開されたと。
まあ、「パリで」なんですけどね。この時期の地方がどうなっているのか気になるところです。


こうした中、1881−1882年、フェリー法が成立します。初等教育の「無償・義務・世俗化」の3原則を導入した教育改革で、教育界をてこに再キリスト教化をはかる教会の野望を打ち砕くものでした。

そこに至る流れとして、1880年、フェリー、首相就任し、中等教育に勢力を誇るイエズス会を追放し、修道会系コレージュ、初等学校が閉鎖します。
初等学校教師の使命とは、全国遍く国語=フランス語を普及させ、「単一にして不可分な共和国」のための前提を形成すること。そのためには、聖史にかわる国史フランス史や地理を通して祖国の観念を養い、共和主義的公民の教化にはかること。理科・算数によって「迷信」を払拭し、科学的世界観に導くこと。遠足、給食、学校貯蓄によって倹約、公衆衛生、集団的規律などの生活規範を体得させ、生徒を教会行事の習俗から脱却させること。


「どこかで聞いた話」が目白押しですな。


この「共和国の新しい司祭」をよく描写してくれているのが、マルセル・パニョル『少年時代の回想』です。これは、『マルセルの夏』として映画化されています。まさに、教師が「聖職」と見なされるようになる時期を描いています。

ちなみに、DVDはこちら。

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さて、1898年、ドレフュス事件勃発、共和政深刻な危機を迎えます。そんな中、エミール・コンブ登場。1902年、コンブ、無認可修道会系学校3000を閉鎖、300の無認可修道会も閉鎖と鉄槌ふるいまくります。コンブは、修道会を「国家内国家」・「近代社会の敵」と見なします。


当然、厳しく行くと反発も強く。例として、ブルターニュの抵抗が。

ブルターニュでは、公立学校でのブルトン語使用禁止されていました。
バス=ブルターニュ地方では、フィユ・デュ・サン=テスプリ Fille du Saint-Esprit「聖霊の娘」女子修道会系私立女子学校を中心とした抵抗します。これは王党派の牙城でもありあました。聖霊の娘は、ブルターニュで設立された修道会で、地域の福祉・教育事業をほぼ一手に担っていました。1871年以降、第3共和政初期に聖霊の娘学校急速に拡大します。というのも、フェリー法以後、男子修道会系学校の激減への対抗措置として、世俗公立女子高への自治体の手当てが遅れていたことなどが、聖霊の娘の拡大の原因として挙げられています。


ヴォヴェルにも、女性とカトリックの繋がりが言及されていましたが、総じて、革命は、女性に対して自身の側につけるための有効な措置を延々放置してきていることがよく分かります。女子校もさることながら、世俗女性教師育成も完全に出遅れていますし。


こうした中、1905年、政教分離法がついに成立します。国家・県・自治体は一切宗教予算支出せず、信仰を私的領域に限定し(聖職者の政治活動禁止・宗教的祭儀の公的性格一切剥奪)、教会財産の管理・組織運営は信徒会に委任します。これにより、19世紀の政教関係を規定してきたナポレオンのコンコルダートが破棄され、16世紀以来のガリカニスムが最終的に解体されます。一方で、教会は公的庇護喪失の変わりに国家から聖職叙任権回復、信徒会も運用しだいではローマと直接繋がる可能性を獲得することになります。


ですが、1906年宗教戦争が勃発。軍が一部教会弾圧を拒否し、強硬策転換してしまいます。そうこうする内に第1次世界大戦前夜に。そうなると「挙国一致」の名のもと、非合法修道会の復活まで承認され、政教分離法の二つ目が骨抜きにされていきます。


ほんと煮えきりません。


1905年以降、「ライシテ Laïcité =非宗教性」は国家原理として一応、一貫して存続しています。ヴィシーを除き、フランス共和国の法的枠組みを形成したのはやはりこれです。


いかに宗教と闘うのに根気がいるか。フランス近現代の歴史はそれをよく示しています。


最後に著者の引用を。

100年以上に及ぶパンチの応酬のはてに、共和主義者たちはカトリック教会をなおKOするにいたらなかった。つまり三色旗は十字架の社会的・政治的影響力を根こそぎにすることは成功しなかった。しかし、「ベル・エポック」というラウンドで奪った「公教育におけるライシテ」というダウンは、少なくとも彼らに判定勝ちをもたらした。


さて、現代。1989年、フランス革命200周年の年、イスラム・スカーフ事件が起きます。フランス社会のモザイク化への危惧が現われました。ですがフランスはライシテを譲れません。

聖俗不可分の絶対神への帰依者が権力の座に着いた時、さらに抑圧的な社会が現出するこであろうことは、サヴォナローラフィレンツェカルヴァンジュネーヴを想起するまでも無く、西欧の歴史をほんの少し振り返ってみれば十分であろうと。


1995年、共和国はマグレブ系フランス・ムスリム代表者会議と契約締結。ライシテ遵守を条件に、イスラム教を公認。つまり、ムスリムをマイノリティ集団として丸ごと受け入れることを拒否し、個々人として「フランス化」したムスリムのみ受容するということ。「単一にして不可分な共和国」原理にあくまで固執したわけです。ただし、トルコ系イスラム復興会議は不参加でした。聖俗不可分、イスラム法の実生活での実践にこだわるためです。


著者は、ヨーロッパを民族ごと宗教ごとにゲットー化し、極小集団に細分化されたモザイク社会に再編することが可能だと信じる人はほとんどいないはず。旧ユーゴのようにモザイク国家化が辿った悲劇を、EUが繰り返すのは愚かであろう。ヨーロッパの未来にとってなによりも必要なのは、民族と宗教の違いを越えた共通の政治的・文化的土俵。最低限、民族と宗教の相違を「棚上げする」契約、ないし共通の了解が必要。政教分離の原則が一定の普遍性を持ちえるだろう、と結んでいます。



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かなり駆け足に紹介終わります。
というか、本書自体、革命期から第3共和政まで結構駆け足で展開していきます。
先のヴォヴェルとの違いは、数量的分析ではなく、ナラティヴにこだわったている点であると。小説なども積極的に取り上げているのもそのためです。
ですから、ヴォヴェルと併せて読むのがいいのでしょう。


個人的には、フランス近現代の教育をめぐる研究というのは、かなり面白い問題が盛りだくさんで、まだまだやらなければならないことがありそうだなという印象を持ちました。昨今のフランス近現代史研究で、教育ものを割りと目にする機会が多いと感じるのは、この辺りかと。


フランス近現代の教育を扱うことは、現代のライシテの問題を議論することにつながるというか、国民統合の問題につながるわけなんですけど、そのあり方・歩み方には、いろいろ示唆に富むところが多いですな。無論、日本にとっても。