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フランスのライシテを学ぶために:ミシェル・ヴォヴェル『フランス革命と教会』

フランス革命と教会

フランス革命と教会


原著はこちら。

Vovelle, Michel., La Révolution contre l'Eglise : De la raison à l'être suprême (Paris, 1988).


著者ヴォヴェルはフランス革命史家の重鎮。


フランス革命の10年で、果たして人々の心性は変わったか?という問い。
制度としてではなく、生身の人間として聖職者にとってフランス革命とは何だったのか。


とういうわけで、その問いへの手がかりとして、革命暦2年の非キリスト教化運動を数量的に研究。
ブロデル系ということなんでしょうか。数量的アプローチを駆使する研究。


駆使する史料は『議会文書集成』全95巻(当時)、共和暦2年(1793‐1794年)、フランス全土から、パリ革命議会に送られてきた4963通の意見書。非キリスト教化キャンペーンを知る重要史料。うち理性崇拝が3728通、最高存在崇拝1235通。


さらに、カプララ文書を駆使。かの有名な聖職放棄者の嘆願書関係文書群です。そのうち3200人以上の妻帯聖職者の嘆願書を審議しています。これは妻帯聖職者全体の半数くらいらしい。ちなみに、聖職放棄僧、全国で17000〜20000人いたと推計されています。


1793年から始まる非キリスト教化運動の起源は、そもそも1790年施行された聖職者民事基本法。そこで全聖職者に対して基本法への宣誓が要求されることになる。ここから革命派と聖職者の対立が激化、全国レヴェルで展開していくことになります。国外追放、一部虐殺があり、この流れの極北に、ヴァンデの乱(1793年3月)があるわけです。


キリスト教化運動、様々なレヴェルで行われます。
例えば、地名変更。空間の非宗教化を促進します。王やキリスト教にまつわる市町村名が革命にちなむ名に変更されていく。無論、暦も革命暦に変更されることになります。


旧制度の一掃の逸話が面白い。例えば、ソンム県アブヴィル、1793年フリメール24日(12月14日)、聖人像などを焼却した際、三色の炎が巻き上がった、との報告や、カルヴァドス県カン、ヴァントーズ20日(3月10日)では、子ども達が鳩を放し、民衆は竜に火を放つ。すると竜が洞窟に火をかける、洞窟から隠修士が現われ、ロザリオと十字架を捨て、基本法への忠誠を誓う、など。


つまりキリスト教化として、中世に教会やっていたことを逆転させてるわけです。
この「奇蹟を奪う」行為を通して、革命の「聖化」がはかられる。


そして、聖職放棄。教会の「神秘的身体」に対する攻撃が空間の世俗化で象徴され、「戦う教会=現世の教会」を支える生身の身体への攻撃が聖職者の人格そのものにまで及んだと指摘。


ちなみに、1790年まで、約11万4500人聖職者がフランスに存在していたと言われ、このほぼ6分の1=16000〜20000人が聖職放棄しました。で、それってインパクトとしてでかいのか?というと、実はこれから導き出してもあまり意味が無いとのこと。
というのも、亡命(20000〜25000人)や処刑(3〜5000人)、革命直後の修道会解散など(転職修道士26500人、聖務怠慢聖職者28500人)を入れると分母自体減っているわけだと。

ただ、聖職放棄は、恐らく当初の目的には無かったらしく、結婚させることを主眼としていたとのこと。一部の僧侶は、単に司祭職の辞表を提出し、礼拝の執行を放棄しただけだったりします。


逆に、あんまり阿りすぎて非難される聖職者も。
例えば、リヨン革命委員会は、ドリヴォンなる僧を追及します。このドリヴォン、イエスを否定するのですが、革命委員会議長バランは、彼を悪党と非難します。というのも、イエスは自由と平等を最初に唱えた人物であり、彼こそユダヤの中の最良のサン=キュロットだったといってまで言っています。
ただ、多くの聖職放棄僧は、「亡き父が及ぼした強制の結果として」とか、「迷信に満ちた教育の結果として」、しょうがなく聖職者だったと弁明。一番多いのは、「もともと聖務ちゃんとやってないから」放棄しますという弁明。まさに生臭坊主告白。


彼らの願望とは、「善良な市民」「真の共和主義者」になることでした。極端な例で言えば、エクスのサン=テスプリ教会の元司祭ギュイヨンなんぞは、山岳竜騎兵になったりします。彼のような軍人的気質を持たないものは教育職に転職。


そして、「聖職者の集団懺悔録」たる、カプララ文書の妻帯僧侶の嘆願書分析。約3000通(全体で推定6000人)を扱います。
非常に様々な人間ドラマが見えてきます。


手始めに、1787年、ル=ピュイでサント=ジュヌヴィエーヴ修道会士だったクローズ・モンブリゼは、「気楽で快適な暮らしを探し求めていた」と告白。


そもそも、職業を変えることは、当時の聖職者にとって一大事でした。なかでも半分近くが初等教師に転職しました。
特に助修士が悲惨。転職してさらに貧乏になります。読み書きできないし。単なる庭師だったりしたから。ところが「パリの教皇」カプララ枢機卿は彼らに復帰認めません。弱者に厳しい。


カプララ文書は、結婚のきずなの具体も見えてきます。かつて教会側は、妻帯聖職者擁護として、老いた女中や親戚の女性との形式だけの結婚と強調していました。しかし、3000人妻帯聖職者中、2200人は明確な家族状況把握可能です。うち750人は父親になっています。全体の35%。


逆に、ここで出来た子どもの人生気になるところです。


興味深い例として、ガール県元司祭J・J・ペルソンは、カトリックの中に結婚してくれる相手が見つからなかったので、プロテスタントの女性と結婚、彼女を改宗させます。彼らは純潔保守していた模様。なかには身分を隠して良家の女性と結婚して社会的上昇をうまくせしめたやつもいます。
しかし、悲惨な結婚生活を送っていた人もいました。こんな証言もあります。
「私との間に9歳の子どもを一人もうけている妻、マリ=アンヌ・アンリは、6ヶ月前私のもとを去り、彼女を誘惑した放蕩者のあとを追っていきました。そのため、私はもう彼女との仲を続けたいとは思いませんん…。」



ところで、結婚を後悔することなく受け入れた集団もあります。リヨンの富裕商人になったトゥールナションは、「誠実にして断ち切ることの出来ない絆がかくも強くとらえて放さないこの俗界に、どうか私を委ねていただきたい。」あるいは、エロー県63歳の元僧侶、ジャルナヴィエは、「純潔というきびしい規範は、われわれにはほとんど実践不可能なものになった。」また、ヴォクリューズ県のラヴォは、「あらゆる利己的な思惑を越えて、家族を食べさせていかねばならなかったののであり、捨てる決心がつかなかった。」と告白しています。


ヴォヴェルは次のように解釈します。しばしば強制されて、時には打算によって結婚したこれら聖職者たちは、他の一切の思惑に勝る家族への愛着というものを発見した、と。


例を挙げれば、エロー県のルノルマンは、「家族を結びつけている絆が、われわれの離婚へのあらがい難い障害になっている。」とか、ヴァール県ジャン・ルヌーは、「強制されたにせよ、されなかったにせよ、公に聖職身分を放棄したことは変わりはありません。…この嘆願人(代理が執筆)は枢機卿猊下にさらに申し上げます。聖職身分に復帰する望みはもはやなく、かくも遠ざかってしまったからには聖職に復帰するよりもむしろ死を選びます、と。世俗の衣装は脱ぎませんし長髪もやめません。仮に教会の外から脅されたとしても、けっして結婚を解消しようとは思いません。もし、教皇聖下から発せられる勅書によって俗世に返されるという望みがかなわないのならば、断固として教会の外にとどまりつづけるでしょう。」


注意しなければならないのは、これらの声は、筆を執らなかった声なき声の代弁なのだと、そしてそれは教会からの心の離反と生起した亀裂の重大さを裏づけるものだったとヴォヴェルは読んでいます。


理性崇拝・最高存在の話はあんまり惹かれなかったのでカットします。


さて、非キリスト教化運動の推進者とは誰だったのでしょうか?
まず、派遣議員の入県と非キリスト教化運動の盛り上がりの関係を調査しますが、結局、派遣議員だけが主犯ではなく、地方の革命軍や、民衆協会も関わっていることが判明。実際、非キリスト教化運動は、そのイニシアチヴは集中し、また重なり合うものであって、単純に一義的すぎる方法を一切受け付けないものなんだとか。
ただ、運動推進者は、平均30代半ばの集団で、3分の2がブルジョワジーとのこと。では運動はブルジョワ的現象なのか?というと、データが不十分。参謀本部にしか来ていない文書しかしらないから、これだけで判断できないでしょうとのこと。禁欲的です。


それでは逆に、非キリスト教化運動への抵抗はどこまでわかるのか?多くは、女性がかなり運動に抵抗していることがわかります。
例えば、プリュヴィオーズ24日(2月12日)、国民公会が受け取ったソーヌ=エ=ロワール県シャロール民衆協会の報告書によると、「狂信の祭壇を倒壊せしめたために、地方のいくつかの村で女だけによる騒擾が起きた。」「偽善者ともの女たちへの影響力と、彼女たちの神秘的なものへの嗜好の結果なのか」、などとタラタラ文句が。


革命後、旬祭日(休日)になると、男は居酒屋や市場で飲み、論争していた。ところが女たちには村でもはや何もすることがなかった。つまり、日曜日に教会にいくことが、村の女性たちの気晴らしだった。騒擾はそこから発生したと。というわけで、自治体は女性の気晴らしを提供し、予算を捻出しろなどと指示されます。


とにかく、革命側の女性に対する嫌悪すさまじいらしく、オート=ロワール県ル=ピュイの派遣議員レノーは、ジェルミナル28日(4月18日)、「信心ぶった女ども」への禁固重労働を課す布告まで発令してしまいます。「愚かな信心ぶった女どもと他の気弱で馬鹿な女市民どもがため息をついて顔をしかめながら、ギロチンにかけられた司祭に付き添って行けない」ようにするため、との要望が当地の民衆協会から上がってきていたためなんだとか。


また、女性を隠れ蓑にして抵抗運動やっていた例もあります。アルプ=ド=オート=プロヴァンス県マノスクを例にあげると、聖職放棄僧が根回しをし、信仰の自由に関する法令を公布させ、それを盾に女性たちが集会を開き、派遣議員が宗教を潰したのだと非難します。彼女たちの首謀者は、密かに活動していた、女子修道会の院長マリアンヌ・ロージェで、表向き政治クラブの会員、信心会の主任司祭だった一僧侶が彼女の後押しをしていたのではなないかと考えられています。


ヴォヴェルは、女性たちだけが主体となって抵抗したわけがない。恐らく傍らに男がいたはずだと。ただ、議員達は運動を低く評価するために「女性化」に腐心し、故意に「信心ぶった」愚かな女の顔を運動に与えようとしたのだろう、と解釈していますが、果たしてそこまでの根拠はあるのでしょうか。


とはいえ、非キリスト教化運動は、抵抗にあいながらも一定の効果が会ったと考えていいだろう。何よりも、第2、第3のヴァンデが再発していない。農村社会に着実に非キリスト教化の根は残っていったと解釈しています。


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訳者あとがきにも指摘されているように、膨大な量の史料を駆使して行われる、「短期的変化」の事件史と「長期的持続」の心性史の綜合の試み。

今に至る、フランスの国是たる Laïcité がどこからきたのか。いかなる歩みを経て辿りついたものなのか。その基礎的データと意義を示してくれる研究。

思うところがあって、一連の基礎勉強本の一冊として読みました。
ものすごい量の史料を扱っていますが、そのデータの解釈は、とても慎ましいです。禁欲的とすら言えます。この辺に、フランスにおいても、革命期の歴史、しかも教会の問題を扱うことの難しさのようなものを感じました。


恥ずかしながら、今回はじめて、論文以外で、ヴォヴェルの研究をまともに読みました。
ただ、この本、お金の関係なのだと思いますが、注や索引がないのが残念。もしかしたら原著自体に注やらが無かったのかもしれません。訳注も無いので、この辺りのことをあまり知らない人が読むにはしんどい本ではあると思います。

しかし、déchristinaisation=「非」キリスト教化という訳語は難しいですね。「非」だと何かを否定しているニュアンスを持つし、「脱」だと何かからさっぱり脱却した感があるし。けれど、それが指しているものは、そのどちらでもあるようで、どちらでもないような事象です。その後の歩みを見ても、宗教と政治が、きれいにスパッと切れなかったことを示していると思います。ここまでラディカルにやったのに、それでもなお…。
フランスで、今も宗教の問題がいかにやっかいであるかを窺わせてくれます。


それから、この聖職放棄の研究をするということは、言ってみれば「転向」研究をしているともいえるわけですよね。
その意味でもある種興味を引くテーマではないかと。


まぁ、いずれにしても、フランスに負けず、というか今の日本にこそ、ライシテの問題は切実なのでは。