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SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS 別館

フェイクニュースやメディアの囚人にならないために〜歴史教育の意義:セニョボスの別の顔

ここ1ヶ月前から密かに進めている、近代フランス教育と学知の形成お勉強シリーズからこぼれネタ。


セニョボス (Charles Seignobos, 1854-1942) 歴史教育についてのノート。


セニョボスは、フランス実証主義歴史学の礎を築いた代表的人物として、ラングロワと並び、フランス史をかじったことのある者には知られています。



ちなみに邦語で以下のものがあります。

歴史学研究入門

歴史学研究入門


さらに、『アナール』の開祖、リュシアン・フェーヴルとマルク・ブロックから、歴史学を瑣末実証に堕させた元凶扱いされる人物としても知られています。


そんなわけで、たぶん、多くの「フランス史かじり」(こんなのいるのか知らんが)からしてみれば、セニョボスといえば実証のイメージのはず。そんな彼が歴史教育について何事かを言っておったというのはちょっと「予想外」。だって歴史教育といえば、セニョボスの先輩、エルネスト・ラヴィス (Ernest Lavisse, 1842-1922) がまずもって頭に浮かぶからです。



今回全面的に依拠する参考文献はこちら。
渡辺和行「シャルル・セーニョボスと歴史教育‐世紀転換期フランスの歴史教育と公民教育‐」(『日仏教育学年報』vol. 22、1994年、15‐21頁)


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第三共和政公民教育とと歴史学のコンテクストを簡単に整理すると以下のようになります。


第1期:1882−1891;法の適用と公民教育の組織化。


第2期:1891−1902;ドレフュス事件の影響により平和主義・反軍国主義が教師に浸透していく時期。教師の政治化・政府による規制・警告期。


第3期:1902−1914;急進主義・社会主義による公民教育哲学批判。小学校における歴史教育の公民教育への無益性批判。歴史と公民教育を分ける議論。


ちなみに、1880年の段階で、中等段階の歴史学教授は194人。中等教員全体の4%。生徒1000人当たり歴史学教授2人の割合。これが1900年には480人に。1880年、高等教育段階では地理・歴史講座30でしたが、1900年には65講座。

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追記:第三共和政の年表についてはこちら。http://d.hatena.ne.jp/chorolyn/20060923/1158951793


背景

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1896年、既存ファキュルテ faculté (単科大学に近いもの)がユニヴェルシテ université (今でいう総合大学)に再編。その後高等師範学校 Ecole normale のパリ大への統合。中等教育では現代語と古典語の対立から「中等教育の危機」が。1902年、古典語の選択課程増加。


1898年、ドレフュス事件ピークの中、社会教育学会が設立。理事長レオン・ブルジョワ(Léon Bourgeois, 1851-1925)。副理事長ビュイッソン(Ferdinand Buisson, 1841-1932)。「社会問題は教育問題」の立場で、「連帯主義」を主張し、社会的連帯をフランスの公式教育哲学にするよう運動。これに大学と共和派教授が動員。


1900年、社会教育国際大会開催され、デュルケームも報告。
1904年、国から反軍国主義社会主義的教師が告発され、1905年、政教分離法と兵役2年法導入、イデオロギー闘争が激化。そうして1912年、ポワンカレ内閣により初等教育労組解散させられる。


こうした教育をめぐる政治と社会の動きの中、社会高等研究院では教育をめぐるいくつもの議論がなされていきます。公教育思想を語る「場」の一つとして機能しているということになりますか。


1900−1901年に、「大学における道徳教育」として、アルフレッド・クロワゼが主宰。
1901−1902年、「連帯哲学試論」を、レオン・ブルジョワが主宰。
1902−1904年、「民主主義の教育」「教育と民主主義」としてエルネスト・ラヴィスとアルフレッド・クロワゼが主宰。


そして、今回の主役、シャルル・セニョボスも講演しているのです。1907年、教育博物館での講演、「政治教育の道具としての歴史教育です。


というわけで、そのセニョボスの歴史教育論を見ていきます。

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セニョボスによれば、歴史教育の目的とは、生徒に社会を教えること、社会に生きる人間の出来事を教えることであると言います。では、社会研究はいかにして政治教育の道具たりうるのか。歴史は社会の変化を理解させるために時間の継起を研究する。では社会変化の研究はいかにして政治教育に役立つか。歴史は直接観察しえない過去の事実を「批判の方法」という間接的方法によって研究する。では「批判の方法」の習慣は政治教育に応用できるか。もちろん。


つまり、「社会・変化・批判」歴史教育が貢献する3要素であり、それは政治教育に寄与するものであると言うのです。


次に彼はこの3要素それぞれについて説明します。


最初に「社会」。
歴史の有意性を主張します。つまり、歴史教育は、無数の社会的事実を生徒に示すことで社会についての正確な認識を与える点にあると。特に初等教育での歴史教育が重要。個々の事例から概念を導き出すこと、具象から抽象への思考を習得させることが重要。その際、偉人の政治的行為、国内史のエピソード、君主の交代、改革は統一・服従の概念を与える。慣習・習慣の概念を宗教祭典・巡礼のエピソードから。義務・合法的概念は徴兵・徴税から。制度の概念は議会選挙の法規からと。


このように、初等教育の歴史ですら、民衆・国民・国家・政府・習慣・法・制度・政府職員・兵役・職権・社会階級などの概念をもたらすこと可能であると。つまり、歴史は政治の基本概念を馴染ませる利点があると言うのです。


さらに、比較の重要性を協調します。つまり、過去の社会の習俗・法・組織と現在の社会を比較させる。比較は異なる国民・時代の相違を教える。それは多様性の概念を与える。そして正しい術語、専門用語の習得は政治的言語の習得でもある。それは概念や正しい術語によって曖昧さから解放させる。政治を正確に語り考える道具を持つことができる、と主張します。


以上の歴史教育で得た知識は、不可視の事物を可視化することが可能になる。


次に「変化」。事件の重要性の次は社会の変化の重要性について述べます。彼は真の政治を支配するものは公的制度ではなく事件であると断言。ゆえに事件を生徒に最大の関心事とする形式で教育することを提唱します。シーンから結果へ、事件から変化の確認へと誘導する。それが社会変化の概念授与することになると。


そして、社会変化を知る人と知らない人の対比をします。社会変化を認識できない人は、社会悪への諦め、不正を甘受する態度・無関心である。社会変化・進化の概念をもつことで、社会が修正可能であることがわからない。社会を不変と見てしまう弊害とは、民族気質の固定化・制度の固定化、民族の社会機構を民族気質のせいにしてしまう。


ここでセニョボスは、ドイツの「歴史学派」や、イポリット・テーヌの人種理論をも批判しているようです。


言ってみれば、「変化」を知らないということは、未来が自分達の手で作り変えることができるという考えを生みだせないということでしょうか。



セニョボスは、歴史研究が生徒に変化の正確な認識を与えるなら、彼らは別の変化を迎える用意があるだろうと言います。社会が不変の部分からなると思う人は、変化を見ると地震のように当惑しおびえるのだと。話は逸れますが、昨今のジェンダー批判ってこれですよね。



さて、セニョボスは、歴史を学ぶ人が得られる認識を5点列挙します。

①過去に多くの変化や革命を見るので現在のそれを見ても狼狽しない。
②変化に遅速があることを知る。制度や習俗にはゆっくりと変化するもの、安定したもの、容易く変化するものを区別する。慎重さと迅速さを鼓吹する。
③実践的知識の獲得。どのような手段で社会が変わるのか知る。
④変化させるための策を知っている。
⑤世論の重要性。

最後に「批判」。初等教育における伝説・逸話の利用を推奨します。それは、生徒に真偽2種類の物語があることを教えるのに有効だからです。批判精神の覚醒に有益なのです。2つの矛盾する話を例に、同一の事実でも対立する2つの方法が物語られ、様々な価値の叙述者があることを学べます。2つの方法の価値の差を知らせるために、この印象から利益を得、出典の差異の観念を得させる。こうして専門用語を用いずに、生徒に批判の基本観念を習得させることが可能なのだと。伝説と歴史の相違、原典の異なる価値、直接証言の優越概念などを修得できると述べます。


こうして生徒は、物語られたことを吟味もせずに受け入れる傾向と闘争する。迷信から抜け出るし、印刷物崇拝も無い。歴史的教養の無い文人を乗り越えられる。方法的懐疑の基本たる疑う資質を獲得できる。


この点に関しては全面的に賛成です。はっきりいって、今の日本の小学校でもやって欲しい。


なぜ彼がこのようなことを言うのか?それは、当時、将来生徒が成人した時、新聞以外の政治情報源を持たないから。新聞の囚人にならないために、批判の習慣を新聞に応用できる。ニュースの出典を調べ、評価の傾向を検討する。様々な傾向の新聞を読み比較する。批判をもって照会し独立して判断する。


当たり前っちゃあ当たり前ですが、今の日本の小・中・高の歴史教育でもこの辺を自覚して教授しているのかと言えば、少なくとも自分の経験を振り返ってみると、そんなことはなかったなと思います。


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どうやら、セニョボスの歴史学が政治史中心の意味はこの辺りにあるようです。公民教育の中心が統治機構や政治制度といった公的諸制度とその属性にある以上、歴史のジャンルの中では政治史が重きをなすのは当然の帰結であろうとのこと。


セニョボスは、こう言います。

「一般教養とは生徒の世界に対する理解を助ける共通教育の内容であり、歴史教育は一般教養の一部である。」


ルフレッド・クロワゼもこう言います。

「民主主義の教育で重要なのは一般教育である。なぜなら、専門教育や技術教育は体制を問わず求められる種類の教育だが、一般教育は専門家の中に人間と市民を育成する教育だからだ。」


セニョボスも、このように重きを置く一般教育の中でも中軸的位置を占めるのが歴史学だと考えていました。


ただし、セニョボスの限界もあります。それは、彼にとっての共和政とは民主主義であるということ。そしてその民主主義の内実は、経済的平等を欠いた19世紀的なものだったということになります。

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セニョボスがこんなこと言っていたのは知らなかったので、結構感心して読みました。もっとコテコテ政治史偏重でいくのかと思ったらそうではない。


いや、結構冒頭の「社会」の要素についての主張は正直どうかと思いますが、後半はかなりステキです。


周知のように、第三共和政の初期は、国民統合の「主軸」として歴史と地理のテコ入れをした時代ですから、その辺を念頭に入れて見る必要があります。


それに、この論文では、あくまで講演を史料として取り上げただけですから、実際彼の主張はどう受け止められ、学校教育にどのように反映されたのかはわかりません。
そして、セニョボスが念頭に置いているのは「フランス史」、つまり彼らにとっての「国史」、もっと言えば「共和国」へ至る歴史です。外国史をも含めたものではないと思います。


にしても、「美しい国」なんて言葉が出回り、歴史教育があちこちの分野でかまびすしいご時世なんで、色々考えさせてくれるものではないかと思って挙げてみました。