SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS ANNEX

SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS 別館

『中世ヨーロッパの歌』


昨日熱出しながらも読み終える。


中世ヨーロッパの歌

中世ヨーロッパの歌


原著は1967年。

著者は中世文学における世界的権威の一人。
英米圏ではとにかく彼。
ちなみにフランスだと、ミシェル・ザンク Michel Zink とポール・ズムトール Paul Zumthor が真っ先に挙げられるかと。


これほどの基本文献が今まで邦訳されてこなかったことの方が驚き。というか憤り。


中世文学(というか詩)=宮廷風恋愛(courtoisie)という見方を批判することが本書の基調となっている。
著名な詩人の作品をこれでもかと引用して、一体どこが宮廷風恋愛なんだと一気呵成に攻め立てる。

歌=詩がメインなため、散文との関わりがよく見えてこないという憾みはありますが、作品を読み解く批評の鋭さ・深さは流石という所。

本物の文学者というのは、史料を読むセンスが卓越しているということが見事に証明されています。
こういう人を見ると、歴史学やっている人間の史料読解能力の限界を見せつけられるというか。

そんなわけで、自分が物語りや詩などの文学作品を読み込むと時のお手本となりうる書物です。

そんな研究上の意義などを無視して、こんなに豊かに歌があふれていたのかと実感させてくれます。


幾つか面白かった歌の一部を引用して見ると、「ハルチャ」の一節。
ムスリム・スペイン治下で栄えた日常語による女歌。

私のだいじなイブラヒム、
私の愛しい愛しい人、
会いに来て欲しいの
夜によ!
もしそれが嫌なら、
私が行くわ。
どこで逢えるか
言ってちょうだい!


Meu sidi Ibrahim ,
ya tu omne dolge ,
vent'a mib
de nohte !
In non , si non queris ,
yireym'a tib ,
Gar me a ob
legarte !

(190−191頁)


ドロンケが指摘するように、女の子の情熱的で直截的心情がよく表されているし、何よりも男に愛されるだけの受身の存在ではなく、むしろ積極的に愛してやまない女性がここには見えてきます。


さらに、


お母様―ネックレスは
  要りません。
 私にはドレスがあれば十分。
あの方はこの純白の首を
  見るのがお好き、
 宝石なんか邪魔になるばかり。


Non quero tener al-‘iqud, ya
  mamma -
a mano hulla li
Col albo verad fora meu
sidi ,
non querid al-huli .

(193頁)

これを評してドロンケは、遠慮と傲慢、従順と強い意志が共存し、微妙な心の揺れが表現されていると言い、


この苦しみからお救いください―
この身は絶望の淵!
お母様、どうしたらよいのでしょう―
今まさに隼に浚われそうなのです!


Alsa-me de min hali -
mon hali qad bare !
Que faray , ya 'ummi ? -
Faneq bad lebare !


(194頁)


を引き、この最終行の比喩を、恋を望むと同時に恋を畏れる、魅惑と同時に脅威をも感じさせる乙女心の定まらぬ動揺を見事に表現していると指摘します。


詩の素晴らしさもさることながら、ドロンケの見事な批評も素晴らしい。
上手く読み込むよなぁと感心してしまいます。



またラテン語詩では、11世紀に書かれたとされる『ケンブリッジ歌謡集』から、

西風ゼフュロスが優しく吹き始め
太陽が暖かい歩を進めれば
大地は雪の衣を解き始め
甘美なる新緑で衣替え。


紫色の衣に包まれて、春が来て
さらに美しく着飾れば
大地にあまねく花々が咲き
木々に新緑がふく。


動物たちが住みかを作れば
甘くさえずる鳥たちも巣を作り
花咲く枝々のあいだに
喜びを歌う。


その様をこの眼で見
この耳でその歌を聴く私はと言えば
ああ、これら総ての喜びの代わりに
多くのため息で満たされるのみ。


ただ独り座を定めて
物思いに耽れば、青ざめて
たとえば顔を上げるとも
耳に聞くこと、眼に映るもの悉くなし。


せめてあなただけでも、春に免じて
耳を傾け、心に描いて欲しいもの
青葉を、花々と新緑を―
我が心に気力の失せて、あはれなれば。


Levis exsurgit Zephirus
et Sol procedit tepidus :
iam Terra sinus aperit ,
dulcore suo difluit .


Ver purpuratum exiit ,
ornatus suos induit ,
aspergit terram floribus ,
ligna silvarum frondibus .


Struunt lustra quadrupedes
et dulces nidos volucres -
inter ligna florentia
sua decantant gaudia .


Quod oculis dum video
et auribus dum audio ,
heu , pro tantis guadiis
tantis inflor
susoiriis .


Cum mihi sola sedeo
et , hec revolvens , palleo ,
si forte capud sublevo
nec audio nec video .


Tu saltim , veris gratia ,
exaudi , et considera
frondes , flores et gramina -
nam mea languet anima .

(199−202頁)

脚韻の踏み方も秀逸で、冒頭3節では自然の擬人化、ここでは春の擬人化が行われ、歌い手である女性から見れば、春はまだ感じられない状態。擬人化によって、心理的な距離感をもたらすのに、彼女が心から感じたいと思っていることをありのままに伝えている。
前半部の自然が奏でる春の喜びと対比して、後半部では語り手の女性の孤独が際立たせている。
そして単なる物思いの歌から超えて、独りの他者なる男性へ、彼の心と思いが彼女にたなびくよう訴えかける歌であることを露にする。
「私のために」と言う代わりに「春に免じて」と言い、「私のことを思って欲しい」と願う代わりに「あなたのまわりの春の自然を心に描いて欲しい」と訴える。微妙かつ控えめな主張。わずか1節4行で詩の流れは急変し、恋する女の嘆きは一転して粋な誘いへと変わる。言葉は僅かに、最後の数行で、彼女の心の機微と複雑な思いばかりか、その裏にある情熱が見事に表現されている、とドロンケは指摘します。


いや痺れる分析。



また、ディー伯妃ベアトリーセの歌。彼女は数少ないトロバリッツ(女性トルバドゥール)の一人。
これも単純に素晴らしいと思いました。



心切なく苦しむことしきり、
いとしい騎士に恋こがれて。
未来永劫、人の記憶に留めて欲しい、
この気も狂わんばかりの私の思いを。
  でも分かったの、裏切られたことが―
私の愛が足りなかったと彼は言う―
思い違いをしていたのはこの私、
  ベッドで裸だったときも、着飾ったときも。


きつくきつく彼を抱きしめたく思ったこともある、
夜の続く限り、裸のまま、この腕の中に―
一度でいい、彼の枕になれたなら、
それこそ至福の喜び、なのに彼には分からない。
  ブランシュフルールにとってフロリスこそすべて、
でも、彼は私にとってさらに大きなもの。
私は彼にすべてを捧げる、心と愛、
  私の思い、私の一生、私の眼差しも。


気高く高貴な愛しい人、こころ優しき騎士、
一度でいいから、あなたを私のものに出来たなら、
一夜でいいから、あなたに寄り添い、
愛のこもった口づけをすることが出来たなら―
  夫でなくあなたとベッドを共にすること、
これが今の私の一番大きな願い。
でもこれすべては、あなたが約束してくれたらの話、
  私の言うがままに、すべてをしてくれたらのこと。



Esta ai en gran consirier
per un cavallier qu'ai agut ,
e voill sia totz temps saubut
cum ieu l'ai amat a sobrier .
Ara vi qu'ieu sui trahida ,
quar ieu non li donei m'amor ;
don ai estat en grant error
en leit e quan sui vestida .


Ben volria mon cavallier
tener un ser en mos bratz nut ,
qu'el s'en tengra per errebut
sol c'al lui fesses conseilier ;
quar plus m'en sui abellida
non fis Floris de Blancaflor .
Mon cor eu l'autrei e m'amor ,
mon sen , mos oillz e ma vida .


Bels amics , avinens e bos ,
quora us tenrai en mon poder ,
e que jagues ab vos un ser ,
e que us des un bais qmoros -
sapchatz gran talen n'auria
que us tengues en loc del marrit
ab so que m'aguessez plevit
del far tot so qu'ieu volria .


(232−234頁)


古仏語がよく分からないので、詩の美しさを味わえないのが残念。

ドロンケによれば、冒頭の品格のある嘆きの調子と最初の詩節の終わり方は著しい対照をなしていて、「夜の続く限り、裸のまま、この腕の中に」という言葉はエロティックな男性的欲望の表現としてトルバドゥールの詩によく見かけるものだが、このように女性の口から語られると不意を突かれた感があると述べています。

そういう指摘は抜きにしても、秀逸の切ない女歌だと感じられます。