SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS ANNEX

SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS 別館

 教皇の改名


ついに新教皇が決まったそうで。


「女性の敵」、超保守の筆頭、ドイツのラツィンガー教皇ベネディクトゥス16世を名乗りましたね。


ヨーロッパ知識人の間ではすこぶる評判の悪い人物で、地元ドイツでもけっこう嫌われているんだそうです。


さて、教皇名の選択というのはどういった基準で行われるのか?

基本的に教皇名選択と改名動機について教皇自身によるはっきりとした説明を与えたのは、ヨハネス23世が史上初です。

この時、ピウス12世を次いで教皇に選出されたヴェネツィア総司教アンジェロ=ロンカリは、1958年10月28日、12回目の投票で教皇に選ばれました。

彼が採用したヨハネスは、590年間絶えて使われることの無かった名だけに並み居る枢機卿たちを驚かせました。


ヨハネス採用の理由として、それは彼にとって父親の名前であり、受洗した小教区教会の名称であり、ローマの司教座聖堂たるラテラノ聖堂を献堂した聖人名であり、ヴェネツィアの保護者、聖マルコの旧名でもある。
しかし、特に自分との結びつきを強調しているのは、洗礼者聖ヨハネ、もう一人はイエスの愛弟子の一人、福音史家聖ヨハネの名であるからだと。愛の使徒、聖ヨハネの助力を求めたためだというのです。


こうして、カトリックの現代世界への「適応」を求めた、彼の改革「アジョルナメント」への不休の努力に邁進し、第2ヴァティカン公会議の開催で結実させることになっていきます。


さらに、彼の改名動機にはもう一つあり、23番目のヨハネスを名乗ることで大シスマ期のピサ派教皇ヨハネス23世を対立教皇として斥ける意図もありました。


つまり、アヴィニョン教皇ヨハネス22世の次にヨハネスを名乗った23番目の正統教皇が自分であることを、改名の順位番号を通して世界に知らしめたということになります。


普通、改名動機を教皇が語ることはありえなく、ヨハネス23世のケースはかなり特殊と言われています。
説明しなくても大体分かるからだと。


教皇名というのは、思いつきでもなんでもなく、教皇の自己理解のあり方と密接に絡み、彼の性格、関心、目的、政策の内容と無関係ではありません。


例えば、パウルス6世の改名も実に340年ぶりに登場した名です。
ヨハネス23世と並び、この2人の教皇の改革精神は第2ヴァティカンに集約されます。

現代社会に対する関心の増大、世界各国の歴訪、諸宗派との対話と和解への努力、カトリックの中にあっては枢機卿メンバーの増加とその出身地の広域化などが挙げられるでしょう。

16世紀末以来、枢機卿の定員枠70名を突破したのがヨハネス23世の時であり、パウルス6世期には130名を超えるまでになりました。しまも西欧以外から枢機卿が増加したおかげでイタリア人枢機卿の比率を大幅に下げることが出来ました。

パウルス6世の死後、教皇に選出されたアルビーノ=ルチアーニが、ヨハネス=パウルス1世という複合名を名乗った時、その意図する所は誰の目にも明らかでした。

つまり、その名によって、第2ヴァティカン公会議の改革精神と成果を継承していく決意を表明したからです。
しかし、彼は登位僅か1ヶ月で死去。

そして登場したのが前教皇ヨハネス=パウルス2世となるわけです。
その改名意図はわかりますね。

いずれもヨハネス23世・パウルス6世の着手した教会の刷新を発展的に継承していくことをその名でアピールしたわけです。


さて、翻って、新教皇ベネディクトゥス16世。
83年ぶりの名ですか(ベネディクトゥス15世:位1914−1922)。

彼が改名動機について説明しているのか調べていないので分かりませんが、
もはや「ヨハネス・パウルス」ラインを継承はしないというようにも窺えます。


ちなみにベネディクトゥス15世は第1大戦下と重なるという不安な時代の教皇でした。
和平解決への努力をしましたが失敗しました。
各国に無視されても和解への努力をした教皇であり、フランスから見るとジャンヌ・ダルクを列聖したのもこの教皇
世界宣教、東西教会の統一などに積極的に出たのですが、在位中はかなり各国から冷遇された教皇でした。


さてさて、新世紀の教皇ベネディクトゥスで開かれる時代とはどうなっていくのでしょうか?