SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS ANNEX

SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS 別館

宮下志朗『エラスムスはブルゴーニュワインがお好き』



おなじみ雑誌『ふらんす』で連載されたエッセイをまとめたもの。


著者は東大駒場の教授。
専門はフランス文学、特にフランス・ルネサンス、特にラブレーだったかと。
ですが19世紀文学もやったり、ゾラの翻訳やったりと多岐に渡って活躍されてます。


個人的に、氏のフランス・ルネサンス文化史研究のちょっとしたファンだったりします。


さて、本書は表題どおり、ルネサンスをめぐる面白い逸話を気軽に(でもかなり最新の研究動向を散りばめて)紹介してくれたもの。


全編面白いんですが、特に面白かったのが、『グーベルヴィル殿の日記』とマテウス・シュヴァルツの『服飾自伝』。

『グーベルヴィル殿の日記』とは、16世紀半ば、ノルマンディの田舎貴族が書いた日記で、1549−52、53−56、57−62年の3冊のカイエのみ、全体の3分の2弱しか現存していない史料。

縦長の手帳サイズに毎日10行づつほど律儀に書き継がれ、優に1000頁を超す長大な日記。


この書き手、ジル・ピコ・ド=グーベルヴィル(Gilles Picot de Gouverville, v. 1521-78)は、ノルマンディ西部、シェルブール近郊の ル・メニル=オ=ヴァル Le Mesnil-au-Val の領主。
父の代から林野治水監督官を引き継ぎ、王領森林の管理を務めた。


そもそもこの日記の執筆動機は、彼が銃で撃たれて生死の境を彷徨ったことが契機とか。


『日記』と称してますが、実際は livre de raison, つまり出納簿で、正式タイトルは『私、ジル・ド=グーベルヴィルによりて記されたる家計の支出ならびに収入』。
この手のスタイルで真っ先に連想するのが、イタリア・ルネサンスによく出てくるイタリア商人の『覚書』でしょう。
大福帳の余白に綴った個人的メモ、そこからやがて独立して家訓や同時代の事件を記録していくアレです。
その意味で、グーベルヴィル殿のテクストもこの流れに位置すると見てよろしかろうかと。


で、この『日記』の何が面白いかというと、その圧倒的な「つまらなさ」なんですね。
どういうことか。

(1559年7月)17日、月曜日。昼食後、シモネと私でトゥールラヴィルの牧場にでかけた。シモネはそこからシェルブールまで足を伸ばし、国王が死去したという知らせをを持ち帰ってきた。宮廷から戻ってきたル・クードレがそう語ったという。ル・トレゾールの牧場の乾草を運び出し終った。というのも下働きのグルーとルブレーヌの家のものたちがこの前の水曜日に総出で草刈りをしたまま放ってあったからだ。わたしの方ときたら総勢8人、しかも、そのうち4人はトゥールラヴィルの者たちである。このトゥールラヴィルの助っ人たちのビール、パン、日当に7スーを支出。


ここで言う国王の死去とは、カトー=カンブレジ条約によってスペインと和議が結ばれ、ようやくフランスに平和が戻ろうとしていた矢先、和平を祝う式典の騎馬試合で国王アンリ2世が命を落としたことを指しています。
ノストラダムスが予言したとされる有名な国王の死です。
フランスが血みどろの宗教戦争に突入する入り口に立ってしまった事件。


まったく面識が無いわけでもない、グーベルヴィル殿も尊顔を拝したことのある国王の死よりも、このノルマンディの片田舎の領主は、刈り取った草をどうにかすることで頭が一杯であるかのよう。


個人の内省も事件の感想ない、味もそっけもない日々の記録。
なんと言っても「今日は1日中屋敷にいた」という表現が3310回も書き付けてある日記です。
カウントする方も大変だったと思うよ。


ですが、こうした生の断片の積み重ねというか、このそっけなさが歴史を研究する者にとってはありがたい史料となるわけで。
こうした史料をどう料理するかで歴史家は腕が問われるわけですな。

アナールのル=ロワ=ラデュリをして「歴史人類学にとっての真の獲物、代替不可能なるもの」と呼ばしめた所以がここにあると。


Madleine Foisil による研究と、Le journal du Sire Gouberville, 4 vols (1993-1994). として刊行されています。
写本発見者である Tollemer 神父の注釈付きなど複数出版あるようですが、 現在アマゾン見ると残念ながらいずれも入手不可の模様。


さて、もう一つの伝記、マテウス・シュヴァルツ(Mattäus Schwartz, 1497-1574)の『服飾自伝』。
彼はあのアウグスブルクフッガー家の会計責任者。


まず自伝序文。

1520年2月20日、わたし、アウグスブルクマテウス・シュヴァルツは23歳にして、ご覧のような顔だちであった。ここで言っておきたいのだが、わたしは昔から年長者とのつきあいに歓びを感じてきたのである。いろいろと質問して、その答えを聞くのが楽しくてしかたなかったのだ。話題はさまざまだったけれど、結局は洋服のこと、そのスタイルやカット、毎日何を着てるかといった話に落ち着く。すると自分が30年、40年、50年前に着ていた衣装の絵を見せてくれる人がいたりして、とてもびっくりしたし、それが今の時代のファッションと比較するとずいぶん異様なものに思われた。


こんな体験から、5年とか10年、あるいはそれ以上たって、自分の服装をふりかえって見るために、衣装を絵にしておこうという気になったのだ。そこで上記の日付から裁断や色が分かるように絵にしておくことにした。その出発点となった、この最初の絵は全体として42番目にあたる。それ以前、つまりわが母の腹にいた時から1520年までについては、記憶の糸をたぐりよせる必要があった。


ところでわたしがそうしようと思ったのは1519年のことだった。その頃まだ父親が生きていたから、さかのぼって12番目の絵までは、その年のいつごろだったとか、何日の出来事だったとか、こっちの記憶の欠落した部分についても尋ねて教えてもらったものの、それ以前はよく覚えていないとのこと。わたしの記憶も4番目の絵までさかのぼりはするものの、曖昧模糊としたもでしかない。けれど1510年の第11番目の絵以降については、起こったことを逐一もらさず書き記してある。自分で描いたスケッチもあって、それを渡せばよかったから、よほど楽だった。わたしは実際は同じ髪型の姿を2度、3度と描かせているのだけれど、たとえ服のカッティングや色がちがっていた場合でも、わたしの本ひは1度しか載せていない。最初の衣服、つまりわが母の腹から始めたので、2番目が産着姿となっている。また下絵があっても、おおやけの衣装は考慮に入れなかったし、カーニヴァルの仮装も除外してある。


「わたし」がそれぞれ異なるファッションをまとい、ポーズを決めてプロの画家に水彩画を描かせ、それにコメントを添えた、ルネサンスきってのユニークな自伝。


ヌードモデルまでする飽くなきモードへの執着。
そして一々それへ自分の注釈をつける異常なまでの自我の突出。


このファッションプレート絵日記は、母のお腹の中の自分から63歳に至るまでの計137枚!
いずれの絵にも自分の年齢が明記、上部、左右欄外に自身のコメントというフォーマット。
しかも本人自筆のファッションプレートもあるんだとか。


この挿絵入り自伝は、まず服飾史界隈できわめて貴重な史料と目されていて、彼を「最初の服飾史家」なんていう称号を与えているほどだそうで。


コメントはこんな感じ。

1509年の夏、父はわたしたちにこうした格好をさせた。わたし当時ザンクト=モーリッツの学校にいて、聖ウルリッヒ教会の修道士になりたいと思っていた。祭壇画とか聖人像がわたしの偏愛の対象だった。…


ちなみに彼の父のウルリッヒは、友人にハンス・ホルバイン(父の方)がいて、彼に祭壇画を描かせ、それをアウグスブルクの聖ウルリッヒ教会に奉納している。
この父は結婚を何度も繰り返し、計30人以上の子ども得、件の祭壇画には、3人の妻と29人の子どもが描かれているとのこと。
一歩間違うと横溝正史の話になりそうだ。


服飾だけでなく、ある商人家系の子息が会計士になるまでの史料としても見れるし、そればかりか、ルネサンス人の心性を考える上でもきわめて貴重。


写本はパリとブランシュヴァイクに2点現存。



Philippe Braunstein, Un banquier mis à nu: Autobiographie de Mattäus Schwartz, bourgeois d'Ausbourg (Paris, 1992).