SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS ANNEX

SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS 別館

兵藤裕己:『〈声〉の国民国家・日本』


昨日の続き。これまた面白い。

“声”の国民国家・日本 (NHKブックス)

“声”の国民国家・日本 (NHKブックス)


前作が近代日本における「声の文学」=口承文芸 oral literature について駆け足でしか扱われていなかったので、それを補うべく登場したのが本書。
いわばもう一つの近代文学史でもある。




近代、浪花節が広く大衆の心を掴んだ理由と近代国家の関係、その担い手たるまさに「カリスマ」浪曲師、桃中軒雲右衛門と宮崎滔天玄洋社の関係を中心に掘り下げていく。


声によって担われた近代国民国家論。
声(歌とか諸々の声の文化)が共同性を構築するっていうのは日本に限らず、また国家・近代に限らず様々なレベルで行われるわけですが、こと近代日本に関して、それを担ったのが下層民の娯楽、浪花節だったという議論。
明治20年代に始まり、昭和20年の敗戦にいたる60年は、浪花節流行の時代であり、それは日本近代の国民国家形成から解体にいたる60年とそっくり重なる時代。
著者によれば、浪花節を軸にすえた明治以後の声の文学史が、実は日本「近代」を読み解く不可欠のコードなのだという指摘。


本筋は大雑把に言ってしまうと以上のようになるかと思いますが、まあ例に漏れず、素人にはこれまた色々新鮮な情報が盛りだくさんです。


当時、浪花節が落語、講談よりも劣った芸と思われていて、一気にその地位を口承芸のトップに押し上げた立役者が桃中軒雲右衛門(1873−1916)。


この人の生い立ちを巡る貧民街と声の芸能の話しも重要ですが、この人自身が面白い。
彼の語る浪花節がなぜ支持を得たのか、この辺も詳しく扱われています。
それまでの浪花節とはまず入り方からして違うし、調子もそれまでとは異なる模様。
そして風貌と題目がまた人気の要因だった。


浪花節の最も人気のあるテーマは赤穂浪士もので、言ってみれば仇討ちと「孝」のモラル。
前作の流れで言えば、まさしく正成‐忠臣蔵に通ずるテーマであるということ。


注目すべきは、親分・子分の組織原理、つまり「家」のモラルが強烈に働く世界が他ならぬアウトローの世界であるということ。このアウトローの世界ほど「家」のモラルが強力に働き、かつその担い手でもあったという逆説。任侠のモラルと芸人のモラルというのは共通するということ。そしてそのモラルこそが、実は国家が浸透させようとした天皇=親‐臣民=子という国民のモラルへとつながっていく。教科書の中の「忠烈」正成像、教育勅語の「忠孝」…。


いわば官製「家」モラルとは別に、だがそれ以上に広範かつ強力に、アウトロー=芸人の声によって日本中に広められる「家」のモラルの物語。


著者は左翼の運動が大衆の支持を得られなかった原因の一端をここに求めています。
浪花節を軽んじていたと。逆に右翼がそれを見事にプロデュースしたと。
それが玄洋社であり、宮崎滔天であると。
滔天は雲右衛門に弟子入りまでします。彼が雲右衛門と玄洋社の間をつなぐ。
滔天といえば、孫文と交流もあり、孫文一派の武装蜂起に参加するほどの革命の志士。武装蜂起失敗後、浪花節芸人となって全国を行脚しようと決意する。
滔天によれば、浪花節は「侠の芸術」であって、20世紀を誇る「民衆芸術」であり、浪花節を興隆することで日本は「侠的国是」を確立しなければならないと考えていたとのこと。


この辺、実際左翼も同じことやっていたのではないかという話がこの前出たんですけど、少なくともこの本の中ではそういった指摘はなかったように思います。


しかし玄洋社って、労働者や貧困層を支援していたりしたのですが、言ってみれば今の日本財団と山谷の日雇い労働者たちとの関係みたいなことですよね。
今の右翼との最大の違いはアジア主義者であるということですか。
まあ、当時の右翼ってアジア主義者がデフォルトでしたっけか。


どうでもいいですが玄洋社って面白いですよねぇ。
こう書くと極右と誤解されそうですが。


浪花節は戦中「国策化」され「愛国浪曲」となっていくんですが、実は大して人気なかった模様。
戦後はラジオからテレビへ娯楽が移行していくにつれて浪花節は衰退の一途を辿っていくことに。


浪花節って全然知らなかったですので、こんなに面白いネタが満載なんだとは想像もできませんでした。


ところで桃中軒雲右衛門は成瀬巳喜男が映画化してたんですね。


関連:雲右衛門の声

コロムビア至宝シリーズ SP盤編 桃中軒雲右衛門

コロムビア至宝シリーズ SP盤編 桃中軒雲右衛門


あと雲右衛門の浪花節の台本(?)は国会図書館近代デジタルライブラリーでも見れますね。