SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS ANNEX

SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS 別館

『社会』

岩波の『思考のフロンティア』シリーズの最新刊。

社会 (思考のフロンティア)

社会 (思考のフロンティア)


目次

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はじめに

Ⅰ 社会的なものの現在
第1章 日本の戦後政治と社会的なもの
第2章 冷戦以後と社会的なもの
第3章 社会学と社会的なもの
第4章 社会民主主義

Ⅱ 社会的なものの系譜とその批判
第1章 ルソー
第2章 社会学の誕生
第3章 批判と展望

Ⅲ 基本文献案内

あとがき


内容 はじめに

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  • 「社会」・「社会的」という言葉は、社会学(者)にとって最も見知られた、最も近くにある言葉であるにもかかわらず、いや、まさにそうであるがゆえに、社会学(者)からは最も遠い言葉であると言えるかもしれない。
  • 「社会的」という言葉が、実のところ何を意味し、また逆に何を意味しないのか、さらに、社会学自身が、この「社会的」という言葉によって、いかなる現実を構築してるのか、また逆に構築し損ねているのかについて、踏み込んで考える必要があるだろう。

「社会的なもの」がどのような形で語られるか列挙します。


①「自然」の対立項としての「社会的なもの」=社会生物学をめぐる論争はこの対立
②「個人」に対置される「社会的なもの」=デュルケームの提示した「社会的事実」fait social
③「国家」との対比される「社会的なもの」=「国家」と「市民社会」の問題構制。



ここで独仏の憲法を見てみましょう。



この「社会的な国家」とは何を意味するか?即答できる日本の社会学者はあまりいないのではないか
正解は、「社会的な国家」=日本語で相当するのは「福祉国家」のこと。

問題なのは、日本で専ら「福祉国家」という表現がなされ、「社会的な国家」と表現することが皆無なのはなぜなのか。「社会的な国家」の近似物として、我々が即座に「福祉国家」を思い浮かべることが「できない」のはなぜなのか。


そこから我々が気づくべきは、「社会的」という「日本語」をめぐるある欠落です。social/sozial という仏語や独語に込められてきた何かが、しかし、「社会的」という日本語では、少なくとも今日、忘却され(かけ)ており、さらに、その忘却自体が、忘却されているという事態である。

vii-viii頁

社会学がこの言葉に対しておこなってきた脱規範化と抽象化のプロセスを、時計の針を巻き戻して、逆向きに辿らねばならないということから本論に入っていきます。

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Ⅰ 社会的なものの現在
1章 日本の戦後政治と社会的なもの

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いかに「社会」という言葉が日本の政治から消えつつあるか、そしてそれはなぜなのか。
まず日本の政治における「社会」という言葉の変遷を紹介なんですが、1章は社会党盛衰史概説。いかに社会党がダメになっていったか。政治の世界で「社会」という言葉をすぼめさせたの誰か、なぜか。これを問題にします。


表にするとこんな感じです。

1925 普通選挙法→治安維持法とセット。アメとムチ
1928 男子普通選挙実施
   「社会民衆党」→「社会」という言葉を有した政党として初めて衆議院議席獲得。
1936 「社会大衆党」→麻生久を中心に国家社会主義へと右旋回した政党。
1938 国家総動員法
1940 社会大衆党解散、大政翼賛会に合流、「社会」という語を有した政党が一時消滅。
1945 「日本社会党」結成。安倍磯雄、高野岩三郎賀川豊彦
1947 衆院選社会党第1党に、片山哲内閣。
1948 「社会革新党」←社会党から分裂、平野力三ら。後に社会党右派に合流。
   「労働者農民党」←社会党左派。1957に社会党に復党。
1951 サンフランシスコ講和条約社会党左派、講和条約日米安保共に反対。右派は日米安保には反対。両派の対立深刻化、分裂。
1955 社会党左右統一、「自由民主党」結成、保守の自民、革新の社会の55年体制
1959 「民主社会党」、西尾末広らが離脱により。1970に民社党
1960 安保闘争社会党=総評、民社党=同盟という形で労働運動も溝が深まる。
1977 「社会市民連合江田三郎離脱により。1978、「社会民主連合
1988 消費税導入
1989 リクルート疑惑、参院選社会党躍進、民社、共産は議席減。
1990 衆院選社会党圧勝、民社、共産は減
1993 「日本新党」へ政権交代、連携で社会、民社、社民連参加
1994 自民・社会・さきがけの連立政権村山富市片山哲以来、47年ぶりの社会党所属の首相
   社民連解散、日本新党に合流、同党解散後「新進党」に合流
   民社も解散、新進党に合流
1996 「民主党」結成。新進党を母体
   日本社会党消滅、多くが民主党に合流、残る勢力は「社会民主党」と「新社会党」に分裂。2006年でも新社会党議席なし。
2004 参院選社会民主党2議席
2005 衆院選社会民主党7議席、衆参両院で占める割合1%。「社会」という言葉を抱く政党が日本の国政レベルにおいて獲得しえている議数。


これを見ると、実は90年代の社会党の躍進が終わりの始まりなのではなかったか。まさにこの時期から日本では政治的な言葉として「社会」が急速に衰減していくからだと指摘。


80年代まで30%前後を維持してたものが現在は1%。得票率の低下著しいとか、その最大の原因は支持基盤だった労組の離反とかありますが、いずれにせよ、政治的な言葉として「社会」はこれほどまでに痩せ衰えてしまった。


なぜ社会党は対立・分裂してしまったのか?
理由は3つ。


①戦時体制に深く関与した人々の責任問題。ドイツの社会民主党と違い、ドイツはその多くが強制収容所送りか亡命、フランスはレジスタンスをいち早く組織。ですが、日本の無産政党は、その多くが戦時の翼賛体制にコミットしてしまっています。


日本と西欧の社会(民主)党では歴史的条件が違う。この違いを無視した左派批判、あるいは右派擁護はナイーヴ過ぎると指摘。
そもそも、日本は「共和国」になったこと一度もありません。ドイツは曲がりなりにも経験している点も注意すべき。


共産党勢力、東側勢力とどう関係を結んだか。冷戦構造を強化するのか、緩和するのか。「非」共で止まるかか「反」共にまで出るか。1951のサンフランシスコ講和問題で左右に分かれるのはここ。
西側諸国は「社会主義インターナショナル」を結成し反共姿勢強く押し出します。1949年のNATOにも積極受け入れ姿勢。日本の社会党左派とは違います。

その代わりというか、日本の社会党第三世界、特にアジア諸国との連帯に力を注ぎます。ここも西ヨーロッパと違う。


③階級対立を前提にあくまで労働者階級の党として活動するか、それとも国民政党として階級横断的な政策を志向するか。1949年、社会党第4回大会「森戸・稲村論争」以来の問題です。


ドイツの場合、1959年、ゴーテスベルク綱領で、階級政党から国民政党への転換をはかりますが、その際、APO(議会反対勢力)を生みます。
ドイツでは、中産階層がナチの支持勢力になっていったという苦い経験のため、中産階層をしっかり支持基盤に取り込むことが、ドイツ社民党にとって戦後民主主義を確立し、これを安定させるためにも重要な課題だったのです。


翻って、日本は国民政党を志向したのは民社、社民連。だが全体からしたら少数。社会党の方向転換は1986年。
遅すぎた感があります。



1990年代初頭、西部邁が「ソーシャル」と「リベラル」の対決が来ると「予言」したのですが、実際は「ソーシャル」と「リベラル」の対立する前に、即終わってしまいました。他方、思想・言論レベルでもこの対立は未だに成立していない状況。「社会」諸政党の衰退とおそらく厳密に対応する形で、1990年代以降、日本の思想・言論界が、好んで繰り返し取り上げてきたテーマは「リベラリズム」です。「ソーシャル」がまともに主題化されたためしがない。
擁護するにせよ、批判するにせよ、あるいは再検討するにせよ、少なくとも言葉としては「リベラリズム」の一人勝ちというのが日本の現状。


アメリカ流儀になってきているからそれで行けばいいのか?著者はそうは思いません。「ソーシャル」という言葉が政治的に機能することがほとんどなかったアメリカと異なり、日本はまがりなりにも「社会」という言葉が政治的に力を有していた。だから「ソーシャル」を「リベラル」に代替させる問いの立て方に意義があるとは思えないというのが理由。


それに、そもそも「リベラリズム」というカタカナ語の日付が、きわめて新しいということさえ十分に自覚されていない。それまで「自由主義」と漢字で翻訳され、「社会(主義)」と直接・間接に対比されていた言葉は、90年代になって急に、むき出しのカタカナ語で流通するようになった。「リベラリズム」というカタカナ語の出現と氾濫は、55年体制の崩壊と深く関係していると言います。


リベラリズム」というカタカナ語が急浮上し、あるいは「正義」「公共」といったそれまでさほど目立たなかった日本語が突如迫りだす一方で、「社会」という言葉が忽然と姿を消す。


こんな状況って一体何なのか?これが問い。

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2章 冷戦以後と社会的なもの

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そもそも、日本の諸政党が掲げてきた「社会」とは実際何だったのでしょうか?「社会主義」というのが一つの答え。ちなみに、社会党が目指した「社会主義への道」(1964年)からすれば、「福祉国家」すらも否定。それは資本主義体制を維持していくための安全装置として手厳しく批判しています。
しかし、日本の「社会」諸政党が90年代に衰退していくのは当然としても、「社会的なもの」を「社会主義」と同一視して、その終焉を宣告することが、はたして(それこそ)唯一の「道」なのでしょうか。著者はそうは思いません。


1990年代、ヨーロッパは逆に政治的な言葉としての「社会」がむしろ復活しているように見えると指摘。
例として、イギリスのブレア労働党政権(1997)、フランスのジョスパン社会党政権(1998)、ドイツのシュレーダー社民党政権(1998)を列挙。


個人的には、名前に「社会」を冠していますが、どれも実際はどうなんだろう?というのが素朴な感想です。ブレアのやっていることが「社会」か?というと疑問だし、ジョスパンは失敗してるからシラクになっているし、ドイツも今やメルケルの保守政権ですからね。


ただ、著者が言うには、今のところ、これらの勢力が、現在の日本のように、政治的な言葉としての「社会」を衰微させるようなまねだけはしていないとしています。


とは言うものの、これも今後どうなるかわかりませんよね。


さて、冒頭に挙げた東西ドイツ憲法の「社会的な国家」を再提示。ここで注目すべきは「社会的」という理念が憲法規定だということ。「民主的」という言葉と同次元に配置されていること。つまり、ある普遍的な位相をもっている。民主主義の枠内で闘わされる諸々の意見や理念の「すべて」を拘束する概念であるということを確認。


そもそも、西ドイツ基本法の「社会的」なものは、東ドイツ憲法の「社会主義」「マルクスレーニン主義」との対立関係の中で理解されるべきとのこと。


そして、ソーシャルとリベラルの拮抗は、逆説的だが両者の相互浸透によって支えられるのであり、リベラリズムを浸透させて初めて、ソーシャルなものも立ち上がることができるとし、マルクスレーニン主義に別れを告げ、リベラルなものによる牽引と同時にそれとの拮抗関係の中で社会的なものを立ち上げ、これを鍛えるべきだと述べます。


目を向けて欲しいのは、「社会」という言葉を忘れているのは誰なのか?ということ。それは「社会主義」・「マルクスレーニン主義」に寄っていた人たちだと。


ここでフロイトの「不快からの心理的逃走」を援用して、なぜ彼らが「社会」という言葉を忘れているか説明します。
結論から言うと、「否定そのものが否定されている」からなのです。つまり、はっきり意識的に否定する人は否定の対象を忘れません。ですが意識的に否定できない人がそれを忘れるのだと言います。


ある対象が不快だから否定されるというだけではない。自分がその対象の否定を迫られていること自体が、当人にとって不快であるがゆえに、その対象を忘れられる。

25頁

「社会的」という言葉を「社会主義」・「マルクスレーニン主義」との緊張関係の中で考えなければならなかったドイツに比べて、日本の場合、政治的な言葉としての「社会」は「社会主義」や「マルクスレーニン主義」にそのままつなげて理解される傾向が強かった。だからソヴィエト崩壊を目の当たりにして、落胆や幻滅と同時に、その言葉を捨ててしまいたいだけでなく、捨てたいと思う気持ちや捨てざるをえないという現実そのものを、捨てたいから。不快だから「社会」という言葉を忘れてしまったのだと指摘します。


何というか、「歴史」を忘れた・蔑ろにしたのはまず左翼だったということなのでしょうか。


不快だからとして、「社会」を「社会主義」などと等置してきた当の人々が、その瓦解を目にして、それらの何をどう否定し、批判すべきかをきちんと言葉にする作業を避けてきたツケが今のリベラリズム一人勝ち状況をつくっている。「社会」を蔑ろにしている。


バーナード・ショーの戯曲『シーザーとクレオパトラ』の最後の場面で、シーザーは、まだ何かやり残したことがあったのに、どうしても思い出せないで、思案にくれる。シーザーが思い出せなかったことは何か。それは、クレオパトラ「別れの挨拶をすること」でした。


マルクスレーニン主義」に、「社会」=「社会主義」と信じていたことに別れの挨拶をしようではないかと。



そして三度、東西ドイツ憲法規定から、「社会的」という理念が同時に「自由(主義)」をその構成要件の一つとしていることを確認。


さて、「別れの挨拶」の取っ掛かりとして、ローザ・ルクセンブルク政治学を紹介します。
1918年、ブレスラウ監獄の中で、彼女はロシア革命について「思慮ある詳細な批判」を試みる。ロシア革命の問題とは、レーニン、トロツキーが「民主主義」を蔑ろにしている点だと批判します。


彼女は「形式的な民主主義」を擁護しません。なぜなら、それは常に「形式的な平等や自由という甘い皮の下にある社会的な不平等や不自由という渋い実」から目を背け、またこれに目を向けることを禁じたから。


「レーニンとトロツキーは、万人の選挙によって生まれる代表機関=議会ではなく、ソヴィエトが労働者大衆の唯一真実の代表機関であると称している。けれども、全国の政治生活を抑圧すれば、ソヴィエトにおける生活も次第に萎縮しないわけには行かない。万人による選挙、何物にも妨げられぬ出版および集会の自由、自由な論争、そいうものがなければ、あらゆる公共制度における生活は滅び、偽りの生活になり、官僚制だけが制度の活動的要素として残ることになる。」

29頁


つまり、レーニンは「官僚制」を「民主主義」に優越させたのです。


そして、民主主義と同時に、ルクセンブルクは「自由」という理念を決して手放しません。


「何物にも妨げられることなく泡立つ生命のみが、何千もの新しい形式や即興を思いつかせ、創造的な力を維持しながら、あらゆる失策を自力で正していくのである。制限された自由しかない国家の公共生活は、民主主義を締め出すことで、すべての精神的豊かさや進歩の、生き生きとした源泉を断ち切ってしまうがゆえに、あまりに貧相な、あまりに憐れな、あまりに図式的な、そしてあまりに不毛なものである。」『ロシア革命論』

30頁

「政府の支持者のためだけの自由、ある党のメンバーのためだけの自由は‐たとえそれが多数者であっても‐決して自由とは言わない。自由とは常に、異なる考えを持つ人の自由を言うのである。それは、「正義」へのファナティシズムゆえにではなく、政治的自由がわれわれを教え、われわれを正し、われわれを浄める力、それがこの点にかかっているからであり、もし「自由」が誰かの私有財産になってしまえば、そうした働きが失われてしまうからである。」『ロシア革命論』

30-31頁


ルクセンブルクのレーニン批判は、カール・シュミットの民主主義論よりもはるかに重要だと主張します。


シュミットは、

「近代議会主義と呼ばれるものなにしでも民主主義は存在し得るし、議会主義は民主主義なしにでも存在しうる。そして独裁は、民主主義に対する決定的な対立物ではないし、また民主主義は独裁に対する対立物でもないのである。」『現代議会主義の精神史敵地位』1926

32頁


民主主義と独裁を分かつのは何か。議会主義を構成するのは「討論」、「自由主義」、つまり多元性と異質性の原理。これに対し、


「民主主義の本質をなすものは、第1に、同質性ということであり、第2に‐必要な場合には‐〈異質なものの排除ないし絶滅〉ということである。」この同質性の原理によって、民主主義と独裁は繋ぎとめられるのであり、民主主義の源である「人民の喝采」、すなわち「反論の余地を許さない自明のもの」が、その強度を増していけば、それは独裁へと連続的に移行する。

32頁


これが、シュミットがナチズムへ向かっていくことにつながると。


多くの人は、ベルリンの壁の崩壊を、経済システムとしての資本主義の、社会主義に対する(絶対的)勝利と理解しているが、そうではない。ここで崩壊したのは、何よりも政治システムとしての「独裁」、シュミットの言う「異質なものの排除ないし絶滅」にもとづく政治、あるいはレーニンが革命的組織原理として賞揚した「官僚制」なのであって、その崩壊と入れ代わりに実現されたのは、まさにルクセンブルクが求めた「民主主義」、すなわち「異なる考えをもつ人の自由」と、その異質な他者に反射させながら「自らを正し、浄めていく」人びとの政治なのであると言います。


ポイントは、資本主義を「民主主義」によって是正していくこと。

ルクセンブルクの経済学『資本蓄積論』だけが再評価されているが、その傍らにある彼女の「政治学」を、あまりに省略しがちではなかったかと指摘。


そもそも「社会的なもの」と「社会主義」は違う。なのに、この2つがイコールとされた。この日本の「社会」という言葉の捉えられ方が問題であり、またそれがなぜ起きてしまったのか。

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3章 社会学と社会的なもの

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ここでは「社会学的忘却」の検討をします。

デュルケームヴェーバーなど、学問として社会学を成立させるために、「あえて」忘れてしまったものがあるということ、そしてその「あえて」すら忘れてしまった状態にあることを、社会学成立時にまで遡って検討しています。
ここはカット。

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4章 社会民主主義

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社会民主主義」という言葉にいかに力を注ぎうるかがテーマでしょうか。


まず、ベンヤミンの『暴力批判論』から、彼が問おうとしたのは、正義とは何か、何が正しい目的なのか、ではなく、正義と称されるものを達成する手段として、暴力が正当化されるか否か、されるとしたら、どのような暴力なのか、であると指摘。


では正しい目的とは何か、何が正義かではなく、その正しいとされた目的や正義を実現する、正しい「手段」とは何なのか。

これは、「社会民主主義」という言葉にも当てはまると。
社会民主主義とは、正義としての「社会的なもの」を「民主主義」という手段によって実現する、そういう理念のこと。



目指されるべき理念ではなく、それを選択し、実現する手段という軸をはっきり区別して立てることが重要。


そもそも、「社会民主主義 Sozialdemokratie 」という言葉が最も早く用いられ、また政治的にも強い力をもった国の一つがドイツ。1840年代半ば、民主化を求める人びとの間で使用され、1848年の革命で広がるとのこと。
というのも、フランス革命で達成された民主化をドイツはまだ経験していなかった。その民主化が1848年の革命のもう一つの重要な課題だったため、進歩派の人びとは「社会主義」という言葉と同時に、「民主主義」という言葉を強調しなければならなかったのです。


この後、国家社会主義 vs 社会民主主義、イギリスの労働党へ至る展開とか、イギリスのみならず、他の英語圏でも、「社会主義」と「民主社会主義 democratic socialism 」は厳密に区別されているが、日本語の場合と逆で、後者が「社会主義」を目指す急進的なもの、前者が社会主義よりも「民主主義」に基体を置く穏健なものという形だという指摘とかありますがカット。


そしてフランスに目を向けると、そもそもフランスでは、議会制民主主義を媒介として社会主義を実現するという発想が弱い。むしろ労働組合を基盤としたゼネストなどの直接行動によって、資本主義を麻痺させ、社会を一気に変革する志向の方が強い。いわゆるアナルコ‐サンディカリスム。労働総同盟 CGT の1906年アミアン憲章」ははっきりその方針を明言しています。


次にマルクス。彼は社会民主主義を批判。プチブルのためだと。


このように、同じ1848年革命でも、民主主義や共和制そのものが無いに等しく、まずはその実現を目指さなければならなかったドイツと、民主主義と共和制がすでにあり、さらにそれが革命の中で普通選挙にまで発展したにもかかわらず、その限界を痛感させられたフランスでは、その後の「社会主義」という言葉の意味と重みに、無視できない違いが生じることになります。


それに対して、日本はどうか。
日本と「社会民主主義」の関係は、1901年の「社会民主党」結成が一つの指標になるとのこと。ここで警視総監が禁止命令を出します。その禁止命令の内容を見ると、社会主義的要求に対しては一切言及なし。「当時の政府が最も危険視したのは、社会主義よりも、むしろ民主主義。」社会主義の主張より、民主主義の主張に対して身近な脅威を感じていたのです。


「共和国」の伝統長いフランスにおける「社会党」と未だ天皇制から始まる憲法を持つ日本で「社会党」では、同じ言葉にどれほど同じ意味があると言えるのか?


フランスが共和国を宣言したのは1789年。ドイツは1919年。日本が共和国であるという証拠は、まだどこにもない。
さらに、アジアを見れば、「共和国」でないのは日本くらい*1


自分で共和国名乗れぬ人々が、これらの国々の政治的「後進性」を云々しても、さして説得力はない。「共和国」という漢字にしてわずか3文字の、また「民主」というわずか2文字の言葉の意味を、私たちはもう一度、考え直すべきである。

61頁

社会民主主義は、「社会的なもの」を国境を越えて押し広げていく運動を意味します。国民国家に囲い込めるものではありません。それは国家社会主義になってしまう。


この後、ドイツ革命について、ベンヤミンの「神話的」暴力、「神的」暴力とは何かの説明が続き、神的暴力=議会制民主主義を否定する暴力であること、法 recht を措定する setzend 神話的暴力によって措定された gesetzet 「法律」を否定して、そこから、「法」を意味すると同時に「権利」を意味する Recht を解放すること、ベンヤミンルクセンブルク政治学を支持していたこと、議会制を超える議会制の重要性、議会「のみ」を政治の舞台とする怯懦をルクセンブルクは批判していたことなどが続きます。


さらに、APOについての解説。西ドイツ「議会反対勢力」 APO (ausserparlamentasiche Opposition) 1961、「ドイツ社会主義学生同盟 SDS」が社民党から組織ごと除名されたことが契機;日本だと「新左翼」がこれに当たるもの。


ルーマンによると、

「異議申し立て運動や規則的に繰り返される危機もまた、システムを定期的に脱ドグマ化し、その(環境に対する)適応のあり方を更新するという機能を持っている。」

82頁

さらに、

「民主主義」というシステムは、「政権与党 Regierung 」と「野党 Opposition 」というコード(二項対立)によって運営される。このシステムは、このコードそのものを容認しない「独裁」よりも、複雑性(諸可能性)の維持という点で優れているのだが、しかし、それがシステムである以上、複雑性は縮減されている。つまり、まだ多くの可能性が「ありそうにない」こととして遠ざけられている。

86頁


ルーマンの言葉

「異議申し立て運動のコミュニケーションは、確かに社会の中で生じる。さもなければ、それはそもそもコミュニケーションではない。しかし、それは、あたかも外からなされているかのように生じる。それは、社会のための、しかし社会に反対する責任として表現されるのである。」「(異議申し立て運動において)人は、文字通り、社会の中で、社会のために、そして社会に抗して考えるのである。」

87頁

この章の結論。
「社会的なもの」を実現する手段は何であるべきか=民主主義。ただし、「議会制を超える議会制」によって支えられる民主主義。議会の外 APO からさまざまな力を備給される民主主義。その過程で、目的としての「社会的なもの」もまたより鍛え上げられていくことになるだろう。逆に言えば、そのような力を欠くとき、社会的なものは硬直化し、痩せ細っていくのだと。

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Ⅱ 社会的なものの系譜とその批判

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1章 ルソー

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ここはメモ。

  • politikon というギリシア語が socialis というラテン語に移しかえられることで「政治的なもの」が見失われ、「社会的なもの」が肥大する素地ができてしまったと批判するのがハンナ・アレント。ですが、トマスは、politikon を civilis とも訳している。 zoon politikon → animal civile 。

これは「礼儀正しい動物」。では「礼儀正しい動物」とは何か?「宮廷社会の動物」=宮廷人。

これを踏まえないと、ルソーの言う l'homme civil(社会人と訳される) は理解できないとのこと。つまり身分制の別名だと。

  • 「社会契約」という言葉が厳密に適用できるのは、実はルソー以降。「社会的 social 」という言葉は、ルソーによって初めて「契約」という言葉に接続されたのであり、しかもこの社会的な契約にルソーが託したのは、平等という自然的事実の確認だけではなく、自然的不平等を超えて、あえて平等を創出するという課題だった。
  • イギリス道徳哲学について。この中で語られる「正義」とは「所有」の問題だった。社会的なものの第1の特徴が所有権の強調。
  • 自他の分離をもたらす私的所有を前提にしないかぎり、平等と不平等というコードそのものが機能しない。

「私のもの」と「あなたのもの」を区別する所有が、まずは承認されること。それが「社会的な契約」の基礎。そしてさらにこの契約は、その基礎にある私的所有が生み出すであろう不平等を超えて、「約束」によって「すべて平等になる」ためにさらに、所有されたものの再分配へと向かうのである。

  • マルクス:資本主義こそが「私有」をますます不可能にし、生産様式をより「社会化」していく。重要なのは、「私有」と「個人的所有」の区別。

各人が孤立した状態で手にする「私有」と、社会的な(個人では完結しない)生産過程ならびに生産された富の再分配を土台とした「個人的所有」に切り分けた上で、前者を否定し、後者を肯定しいる。ルソーと共に、「すべての人がいくらかのものをもつ」ことの重要性を強調している。

  • 重要なのは、私的所有の廃絶ではない。そうではなく、私的所有という言葉によって、何かが誰かによって占有されているという事態、私にも所有されるべきものが「あなただけのもの」になっている、あるいは逆に、あなたにも所有されるべきものが「私だけのもの」になっているという事態を、私たちが批判的に捉えなおし、そこから平等への問いを常に再開させていくこと。
  • エーリッヒ・フロム;ナチズムの支持基盤が下層中産階級

「かれらの人生観は狭く、未知の人間を猜疑嫌悪し、知人に対してはせんさく好きで嫉妬深く、しかもその嫉妬を道徳的公憤として合理化していた。」『自由からの逃走』

125頁

ナチズムを熱烈に歓迎したのは、見知らぬ他者には心を閉ざし、見知った人には激しい嫉妬を抱く、そういう人々だった。


他者に心を閉ざし、他者を排除し、同時に自分自身を否定しながら、ナチズムのサディスティックな支配構造にマゾヒスティックに服従していった。自分だけを愛してやまないように見える「利己主義」は、実は自分さえも愛していない。なぜなら、「一人の人間にたいする愛は人間そのもに対する愛」だかであり、他者を歓待すること‐それは眩暈のしそうな他者との「同化」とは違う‐なしに、自分を愛することはできないからである。

126頁

  • 差異の平等、平等の差異というものを実現する「社会的なもの」の弁証法は未完。
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2章 社会科学の誕生

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ここもメモ。

  • 分配の問題と「社会科学」;アイルランドのウィリアム・トムソン William Thompson, 1775-1833 の評価。

「...共同体にとって重要なのは単なる富の所有ではない。その正しい分配である。」

155頁

  • トムソンの「効用」概念:ここに1万円の現金があるとして、これを、すでに1億円もっている人に与える場合と、1銭ももっていない人に分け与える場合、同じ1万円でもどちらがより大きな効用をもたらすか。1銭ももっていない人に与える場合である。つまり、より少ない人から順番に富を分配し、そのの結果、すべての人が同量を受け取るようにしていくことが「最大量の幸福」をもたらすのである。

「富が同一人物にだけ与えられ続けるなら、富のそのつどの分配分が幸福を生み出す力は、どんどん失われていく。しかし、富が多くの人びとに分け与えられるならば、各人の受けとる分配分が幸福を生み出す力は、飛躍的に増大する。正義は、したがって、社会の富の総体が、その構成員に平等に分け与えられるべきことを要求する。」

156頁


トムソンの言う「正義」が、かつてのイギリス道徳哲学でいうそれとまったく正反対のもになっていることに注意。

  • マルクス:労働や生産や、さらには能力という呪縛から人びとを解放し、誰が作ったかとは独立に誰に与えるべきかを問い続けながら、平等と社会的なものをよりラディカルに追求することができるなら、マルクスの言う「搾取」という概念を解体してかまわないのだし、それこそがマルクスを継承することだ。
  • 労働や能力という呪縛は、それに応じた不平等な分配にとどまらず、やがて労働や能力にもとづく人間そのものの「科学的」な選別と再生産に帰着する、ということを覚えていたほうがよい。人間の生とその活動すべてを丸ごと「労働」として肯定することが、回避する一つの手段だが、それがマルクス主義にはできない。


問題は、誰が作ったかとは独立に、誰に与えるべきかを考える可能性について、考えること。

  • 「脱商品化」=自己の労働の商品化(賃労働)によらず、生活が保障されること。トムソンの脱商品化=老若男女すべてに訪れるものであり、賃労働についているか否か、またその賃金の大小によって、誰かが優位に立ったり、逆に劣位に置かれるということはない「協同体」。
  • 日本の「社会科学」;戦前弾圧。1918年、東大学生組織「新人会」の役割と各大学の「社会科学研究会」。治安維持法の本格適用である1928年「3・15事件」とセット。この時解散。

誕生当初の「社会科学」という日本語は「マルクス主義」「共産主義」とほぼ同義だった。ここに「社会科学」という言葉をめぐる英・仏・独の言語圏と日本語圏の大きな違い。西洋の諸言語圏において「社会科学」という言葉は今日よりも狭い意味で、それは18世紀の「政治経済学」ではないもの、それを批判するものそちて誕生したのだが、政治経済学批判の一つにすぎないマルクス主義だけを意味することはなかった。

191頁

  • 「社会科学」という日本語そのものが1923年ごろ以前には存在しなかった。少なくとも影響力をもたなかった。「社会科学」という日本語がそれ以前からあって、1923年ごろ歪められたのではない。もともと歪んで生まれた「社会科学」という言葉が、マルクス主義以外のものも含意できるように、後になって修正されたのである。
  • 政治的な言葉としての「社会」もまた「社会主義」によって独占され、社会的な国家(福祉国家)さえも、社会主義への道を塞ぐものとして批判された。

マルクス主義によって社会科学を独占した1920年代の学生社会科学運動にコミットした人びとの多くが、戦後も社会党のあり方に対して無視できない影響力を行使したから。その独占の代償がベルリンの壁崩壊、ソ連解体とともに、政治的な言葉としての「社会」が衰微する共倒れ現象が生じたのである。



びっくりした。

今でもそうだが、社会科学というものを最も遅れて、しかも輸入という他律的手段によって知った日本の知識人には、18世紀の政治経済学に対する批判のすべてはマルクスに集約されているのだから、マルクスが批判した他の政治経済学批判=社会科学は読む必要がない、読むに値しないと決めつける傾向が見られる。


だが、19世紀のヨーロッパの思想地図において、マルクス主義は、確かに最も有力なものとはいえ、社会科学の一つにすぎない。それ以外の様々な社会科学が、政治経済学批判という太いベクトルをマルクス主義と共有しつつ、多重で分厚い層を形成していったのである。

193頁


それに対して日本。

たとえれば、最新型だと思って買った製品がぶっこわれたので、幻滅と憤怒にかられつつ、それとは全く別の規格品に一気に乗り換える、思慮の浅い消費者に似ている。ぶっこわれた最新型の製品とはマルクス主義であり、他方、別の規格品とは(カタカナの)リベラリズムであり、場合によっては18世紀の政治経済学の最新版である新古典派の経済学である。このぶれの激しい極端な思想的消費行動によって、「社会」という日本語もまた極端に痩せ細っているのである。

194頁

  • 「社会」の消滅‐「厚生」へ:内務省、「社会」を否定したけど、それに見合うことしないといけないので「厚生」を編み出した。
  • 「社会」が「厚生」に置き換えられて、何がもたらされたのか?

国民国家という同質性の原理が強化された。→1938年の国家総動員法で公式に言及された「人的資源」の育成・培養のこと。
②「社会」の側にいた人々の転向。典型が麻生久の社会大衆党の右旋回、大政翼賛会への編入

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3章 批判と展望

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ここもメモ。


  • 「社会科学」と「政治経済学」がどう異なるのか?→全体の可視化と分配的正義。「政治経済学」は「神の見えざる手」=全体の不可視性。「社会科学」は「有機的思考」(コント)=経済活動に一定の計画と統制を加える必要性を説く。
  • J・ロールズ功利主義を批判する理由=「効用」概念の不決定性が根幹にある。つまり、何にどれくらいの効用があるかは各人各様であり、一義的に決定できないとされた点。もう一つ大きな理由は、功利主義が政治経済学同様、個人が自分以外の他者や全体を考慮することを不要とした点にある。

「最大多数の最大幸福」では各人に対して全体が可視化されることは必ずしも意味しない。

  • シュムペーターの「租税国家」を評価。分配という観点からはいい。「市場」vs 「租税国家」という図式。

シュムペーターは国家の定義に、それが誰によって構成されるかはとりあえず括弧。いかなる活動(この場合租税)が国家を生ぜしめるかをまず確定、そこから、その活動に誰が巻き込まれているかを逆算して、国家の構成員をあぶりだす手法。

「代表なくして課税なし」。元来、近代民主制は、徴税と税の使途に関する決定権を、課税された人びとが取り戻すことから始まった。この原理に照らせば、外国人が参政権もたないのは批判されるべき。

誰から徴税されるかだけでなく、その税が誰に与えられるかを考えても、租税国家は国民国家を超えうる。

  • 国家社会主義」とどうちがうのか→租税国家を活用すべきだが、その活用の仕方は「民主主義」に依拠しなければならないという点が違う。


ハーバーマス

肥大した官僚制と行政システムに支えられながら、人びとが自分の私生活以外には何も気にかけずにまどろんでいくこと。社会的なものは、自分以外の他者への気づかいと社会全体を見渡す力に支えられて産声をあげたはずなのだが、彼によれば、現実の社会的な国家(福祉国家)は、それとは全く逆の帰結をもたらした。

210頁

  • ハーバーマスの考える「公共性」は、私的なものからの解放と自分以外の他者への想像力なしには立ち上がらない。
  • 「公共性」「政治的なもの」と「社会的なもの」が二項対立的なものと見る必要は全く無い。社会的なものを、公共性の次元に引き上げながら、政治的に覚醒させることが十分可能だから。


現在の日本の風潮

自己決定の尊重という、それ自体、重要な理念は、90年代以降のリベラリズムの大はしゃぎの中で、もっぱら人びとを分断し、私的なものへと退却させるためだけに動員されている。そこで問われるのは、他者の自己決定を尊重し、また実現するために自分に何ができるか、ではない。自分の中に没入するために、他者への想像力をどうやって遮断するかであり、その遮断するかであり、その遮断の最もありふれた方法は、自己決定権を自己責任にすり替えることである。

212頁

労働と生産に参与できず、他者と社会にとって負担にしかならないとされた生命は、いつでも「死の中への廃棄」(フーコー)の対象となりうる。「労働は自由をもたらす」という言葉で人びとを迎えたナチの強制収容所でおこなわれたものは、まさにそのようなことだったが、現在の皮肉は、この死の中への廃棄が、個人の自己決定によって選びとられていくということである。

218-219頁

  • 脱特権化と脱国境

これまでは「父権的福祉国家」。男性は賃労働、女性は家事労働のジェンダー分割を前提に、社会政策の焦点をもっぱら稼ぎ手としての男性労働者にしぼり、女性や子どもをこの男性に従属する2次的な存在と見なしてきた点に注意を促している。

  • 年金問題一つとっても、日本にそのまま当てはまる。経済的自立の道を与えられていない女性は、婚姻の継続という形で、男性に依存し続けなければならない。
  • 特別に保護される人と、そうでない人という階層化を通じて、社会的な国家はその内部で、不平等を再生産して来た。

経済的自立における男女の平等の実現は、社会的な国家のこれまでの枠組みを超えて、さらに追求されるべき理念の一つである。
日本語で言う「男女共同参画」は、女性の市場への参画のみ限定されるべきではない。
手持ちの物的資産の有無や多寡は言うに及ばず、賃労働の有無をも超えて、平等とは何かを考え続け、市場での賃労働から排除される人びとに対しても、可能なかぎり平等な生活基盤を保障する仕組みをととのえるべきだろう。ジェンダーだけでなく、障害者と健常者の分断、子どもも。アプリオリに市場や賃労働から排除されているがゆえに、その保護者の経済的状況に関わりなく、地域格差などを是正しながら、教育その他の基本財を平等に保障すべき。

  • 社会的なものが目指すべき脱特権化は、様々な意味で市場と賃労働の枠組みを超えるべきであり、さらに市場をベースとした交換的正義を超えて、分配的正義を構想すべきである。
  • より普遍的な社会保障のしくみが必要。正規雇用か否か、被雇用者か否かにかかわらず、すべての人を加入者とし、その所得に応じて保険料を設定する。企業に対して、その分軽減される保険料負担を、増税によって社会保障財源として拠出させるという仕組み。あるいは、社会保障総体を保険方式から税方式に組み換える制度変更が、選択肢として考えられるだろう。

資本のこの動き(グローバル・マネー)に対して、各国民国家は下方へのバーゲニングを迫られてきた。つまり、法人税等直接税を引き下げるか、少なくともそのままにし、必要なら消費税等の方を引き上げ、企業が(たとえば保険料支出の労使折半という形で)その社会保障に責任が負うべき正規雇用の枠を解雇等により縮め、非正規雇用の枠を広げるのを奨励するか、少なくとも黙認する、という態度をとってきた。いや、そのような対応を迫られてきたと言うべき。なぜなら、経済の維持と財源の確保のためにも、各国民国家は、より多くの資本に「客」として足を運び、自国に停留し、金を落としてもらわねばならないからだ。
 かつてシュタインが説いた「社会的な国家」は、市場における自由競争を超越して、市場には不可能とされた調整をおこなうものんだった。しかし、社会的な国家は今やそれ自身が、グローバルな資本の前での競争を強いられ、その結果、社会的なものに対する財源をぎりぎりまで切り詰めることを迫られているのである。これこそがネオ‐リベラリズムの帰結の一つであり、ヨーロッパをはじめ各国の「社会」諸政党も、こrねい様々な妥協を強いられてきた。福祉国家の危機を少子高齢化にのみ囲い込む言説は、それ自体がイデオロギーとして、こうした事態を不可視化する。資本を前にした国家間の競争はまた、グローバル化という言葉とは裏腹に、ナショナリズムが肥大する一つの素地を、潜在的に作り出している。
 このような状況に抗して、社会的なものを防衛していくためには、一国単位の政策ではもはや、どうにもならない。対抗策の一つは、グローバルな資本を前にした、社会的な国家のバーゲニング競争に歯止めをかけることであり、税率や、社会保障のために資本が支払うべきコストについて足並みをそろえながら、資本の逃げ道を塞ぎ、それを包囲していくことである。そのようにして「租税国家」(シュムペーター)が国民国家の枠組を超えるとき、社会的なものが国境を超えていく素地もまた生まれる。そういう取り組みにまで踏み込まないかぎり、社会的なものはもはや維持できない。

223-224頁

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エントリーに3回も失敗してキレそうになりましたよ。
後半はもう力尽きて、ノートをちょろっといじくっただけの手抜きになってしまった。


個人的には前半が結構興味深く読みました。
特にローザ・ルクセンブルク政治学とか。

このシリーズの氏の前作と併読するのがいいでしょうね。

身体/生命 (思考のフロンティア)

身体/生命 (思考のフロンティア)

*1:あとタイか