SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS ANNEX

SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS 別館

天道是邪否邪:川勝義雄『中国人の歴史意識』


中国人の歴史意識 (平凡社ライブラリー)

中国人の歴史意識 (平凡社ライブラリー)



目次


Ⅰ章
司馬遷歴史観
司馬遷ヘロドトス
天道は是か非か
中国人の歴史意識


Ⅱ章
マスペロの道教理解について
道教の神々‐いかにしてこれと交感するか‐(H.マスペロ)
中国人における現世とその超克‐仏教受容の風土
道教と季節‐中国人の季節感‐
中国前期の異端運動‐道教系反体制運動を中心に‐
中国的新仏教形成へのエネルギー‐南岳慧思の場合‐


Ⅲ章
六朝貴族社会と中国中世史
六朝貴族制
中国中世史研究における立場と方法
重田氏の六朝封建制論批判について


本書は氏(1922年〜1984年)の遺著。
僕が学部時代の頃、中国史でやはり京大東洋史っていうのは、半分「伝説」みたいな感じでした*1
少なくとも、僕の周りの東洋史連中にはそんな雰囲気がありました。
氏はその当時の京都学派の代表みたいな人物。



専門は六朝貴族制ですが、道教研究や、フランスの道教研究者、マスペロの遺著を翻訳したり、パリの高等研究院に招聘されて講義などもしていたとのこと。
よく事情は知りませんが、当時の日本の中国史研究者としてはちょっと出色だったかもしれません。

この本は、僕が学部の東洋史の授業出てた時だったかどうかも忘れたけれど、なんとなく頭の片隅にあって、書店でふと見かけて、つい手をのばしてしまったという、なんともゆきずりの出会い的な経験で手に入れた本。

で、そんな本の思い出を少し。
とはいえ、本書は遺稿集なので、全部取り上げるっていうのもちょっとしんどい。
なので、一番僕が面白がった所、つまり最初の1章、司馬遷歴史観を軸とした中国の歴史意識についての論考をダイジェストで。
ただし、それぞれの論文で、記述に重複が見られるので、思い切って僕なりのアレンジをしてみることにします。




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まず、中国における歴史意識について、当時日本の研究者が抱いていた認識から。というか、相手は西洋史研究者に向けて、一言物申すという体で始まります。


かつてヘーゲルは、史書を残すという、この巨大な中国人の努力の結果をいとも簡単に片づけた。「シナ人の歴史は、何の判断も理屈もなしに、ただそれぞれの事実を、そのまま記録しているにすぎない。」と。(『歴史哲学』上、265−6頁)


史書はたしかに「事実をそのまま記録する」し、それが一つの重要な目的でもある。だが、数千年にわたるそのような史書編纂の巨大な努力は、「何の判断もなしに」、ただ無反省に、単なる惰性として続けることが果たしてできただろうか。


さらに、西洋古代史家として「第1級の学者である」村川堅太郎は、中国の歴史家として司馬遷をきわめて高く評価する一方、中国には「東洋の専制君主」によって「個人の自発的執筆」の「自由が束縛されていた」から、「漢代以後の正史なるものは、一王朝の滅びたのちに、官撰にせよ私撰にせよ、定まった形式によってつくられるべきものとなり、史とは王朝の史であり、修史とは史料の編纂のようなものであった結果、だれがこれに当たっても大した差異がなく、歴史観とよぶべき思想もないし、したがって個性のある歴史家の生まれる余地がなかったのはむしろ当然であった」といわれる。(世界の名著5『ヘロドトス・トゥキュディデス』解説10−12頁、1970、中央公論社

司馬遷はさておくとしても、厖大な歴史記述を残した中国の歴史家たちは、すべて専制君主の政治権力による束縛のもとで、自発的執筆の自由意志を発揮することもできず、ただ専制君主の命令のままに、司馬遷が発明した「紀伝体」の歴史記述形式に従って、奴隷のごとく黙々と、「何の判断も理屈もなしに、事実をそのまま記録して」きたにすぎないのであろうか。中国の歴史家たちは、かくもみじめな奴隷のような存在だったのだろうか。

34頁


まさに、ここに、氏が突き進んでいく問いがあるといえるでしょう。


では、西洋における史書の祖たる、ヘロドトスの史書を見てみるとどうか。その題名『ヒストリア』となっている。それは「探求」という意味だ。つまり事件の原因の探求にある。そしてそれは地理学的・民俗学的関心に基づく調査研究の記録となっている。つまり、調査研究の一形態としての歴史だといえる。

だからヘロドトスにおいて評価される主要点は、彼がある事件の目撃者の証言や伝承をすべて無批判に信じたのではなく、それに対して合理的な批判を加えた点にある。

ギリシア思想のもつ一般的傾向は、普遍的な存在、恒常的な存在に関心をむけ、永遠に不変なるものにおいて真実性を見いだそうとする。それがギリシア思想一般の根底にある形而上学であって、そのような形而上学からすれば、常に変化するもの、自己の中に生成と崩壊の因子を内包するような存在‐歴史とはまさにそのような存在である‐は、真正な認識対象となることはできなかった。


氏は西洋の歴史意識の「ルーツ」をこう評価します。


これに対して、司馬遷が後世の中国に対して演じた役割ははるかに深刻。学としての歴史学を創始して後世の範となっただけでなく、中国人の歴史意識の自覚化に寄与した面でも甚大な影響を残したと考えられる、こう主張します。


では、歴史意識とは何なのか?
それは、われわれが歴史過程においてあり、われわれの存在がこれに依存し、これに委ねられていることの自覚であって、この過程の裡にある人間存在の意味を問うこと、さらにその歴史過程そのものの意味を問うこと、であると言います。


コリングウッドによれば、歴史の意味を問う=そこに初めて世界史の概念が成立する、という。(コリングウッド『歴史の観念』)

ギリシアにおいて世界史は成立せず、古代中国においてはじめてこうした世界史が成立できた理由=ギリシア形而上学と古代中国の形而上学との性格の相違に起因。古代中国では、「道」の形而上学を基礎として時とともに変化する歴史的世界の意味を問うところの歴史意識が自覚的に形成されつつあった。その意識を司馬遷が見事に体現していた。だから中国には世界史の理念がない、と簡単に断定することは、極めて危険である。

15頁

熱くボルテージ上がって来てます。
ここで確認しておきたいのは、氏にとって、歴史意識と世界史という観念は不可分だということです。
話はズレますが、ちょっと前まで、確かに「世界史」という言葉はかなり出回っていましたよね。
もちろん、学校の教科としての世界史ではなく。いや、もちろんそれとも大いに関係アリだと思うのですが。

そして、この世界史という言葉を付した書物って、やっぱり関西系の研究者がよく使っていたような気がします。


さて、話を戻しまして、では、中国における「史書」の意味について、氏の主張を見ていきましょう。

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I. 「史書」とは何か

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そもそも、中国における「史」とは、もともと記録者の意味に他ならない。歴史・歴史記述を意味するのは後世のことで、はじめは記録者・記録官を意味していた。
しかも、この「史」は「直筆」すること、まっすぐ、ありのままに事実を記録することを至上の義務とすべきものとされた。


『左伝』宣公二年の条、晋の「史」の董狐、同じく襄公二十五年の条に見える斉の南史の話は最も有名。時の権力に抵抗して命をおとしても筆を絶対にまげないことが「良き史」たる資格とされた。


そして、「史」が「歴史家」に拡大されたのは7−8世紀。劉知機が、「史官」の務めの第1は、「善を彰し悪を貶し、強禦=権力者を避けざること、晋の董狐・斉の南史のごとく」あらねばならぬ、と力説。「史の直筆」は、宋の文天祥が言うように、天地の「正気」の発現である、とすら観念されていた。「正気歌」


つまり、権力に抗い、命を賭けて、断固守るべき至上の価値が「史官の直筆」であり、記録者、著述者たる知識人の責務と観念された、というのです。


この「史の直筆」の観念、「善を勧め、悪を懲らしめる」とは、『春秋』の基本的精神に由来するといいます。
中国において、「史の直筆」、つまり「事実をそのまま記録すべし」という観念は、人間の善悪に対する価値判断、すなわち倫理的な要請を根本の動悸(ママ)として成立した。


たしかに、中国の史書に見られる大きな特色は強烈な倫理的批判であるし、執拗なまでの倫理的政治的考察である。


『春秋』襄公二五年(前548年)、「夏、五月、乙亥の日、斉の崔杼が、その君の光(荘公)を弑した。」
『左伝』の説明によると、斉の国の崔杼が、妻と不倫の関係にある君主の荘公を、みずから手を下したわけではないが、結果的に自分の部下に殺させたという事件が起こった時、斉国の史官が兄弟二人まで生命を犠牲にして事件の記録を残そうとし、ついに三人目の弟によって右の記録が全うされたのだ、という。権力を恐れずに事実を「直筆」するこのような史官が、中国における歴史家の理想像とされ、劉知機に継承されていく。


この記述に関して、中山治一の『左伝』解説によれば、

「ふたりの大史を殺した崔杼のがわに問題を移して考えてみると、かれはいったいなにゆえ歴史家をふたりまでも殺さねばならなかったのか。もちろん、それは自分の行為が記録として後世に残ることをおそれたためである。けれども、歴史家は、その主観によって崔杼に道徳的批判を加えているわけではなく、ただ崔杼の行為をそのまま記録しただけである。それゆえ、このばあい崔杼がおそれたのは、歴史家の主観的なあれこれの判断ではなく、むしろ自分の行為そのものの記録であったといわなければならない。したがって、人間行為をそのまま記録すれば、それ自体ただちに倫理的批判をふくむ、ということになる。…人間行為あるいは人間的事実の記録そのもののもつ倫理的批判性、…これが歴史的批判の本質であり、…史書がつねに“かがみ”といわれてきたことの根源は、実にそこにあると考えられる。」(中山治一『史学概論』学陽書房、1974年、11-15頁)

75−76頁


では、なぜ中国における歴史記述があれほど執拗な倫理的政治的考察に満ち溢れるのか?


そこで、中国の史書と歴史家に一貫する第二の特色へとつながっていきます。
それは、『資治通鑑』に典型的に見られるように、歴史を政治の資とする意識の強さ。
史学は「義」にもとづく「経世」をめざすべし、という思想は、18世紀、最も深い哲学的基礎の上に史学理論を構築した章学誠の基本的な主張でもあった。


「経世」=「世を経めること」=特に政治、統治の意味に解されているが、元来「経」の原義が「たて糸」であるように、「経世」とは世にたて糸を通すこと、人間の住むこの世界全体に筋の通った秩序を樹立すること、を意味している。国家レベルを越えた、はるかに広い人間世界全体の秩序づけであり、秩序の確立によって文明世界の維持することにほかならない。


そしてそれは、文明的人間の絶えざる創出=「教化」と結びつかなければならない。そして「教化」の基準となるもの、それが「経書」に示された倫理規範であり、是非善悪の価値基準にほかならない。


従って、中国では政治と倫理とが表裏一体である。倫理は政治のよってもって立つ基盤であり、政治は倫理的世界すなわち文明世界の樹立をめざさねばならないとされた。


それが「修身斉家治国平天下」。
そしてこの秩序原理が「礼」。
この「礼の義」=「礼」原理こそ、文明世界を成立させる基本条件であり、これを失うということは、野蛮・禽獣の世界に堕するものとされた。


だから史書が倫理的精神を強く持ち、政治に対して強い関心をもつ、このように中国の史書の性格整理します。


では、史書に倫理性を与える思想的背景とはいかなるものなのか、次にその点について氏の説を見ていきましょう。

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II. 「史書」の思想的背景‐「道」

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まず確認しておくことは、老子以後、荘子による認識論的検討を経た「道」の形而上学は、儒家に影響して、その世界観の根底にすえられていたといいます。

「形而上なるもの、これを道という。形而下なるもの、これを器という。」儒家の経典たる『易』の最も権威ある解釈書「繋辞伝」の言葉。


この「器」、つまり形をもった形而下的世界の根拠、あるいはその究極相は、形なき「道」であるという形而上学がすでに司馬遷のころまでに、儒家道家の区別をこえて、共通の世界観を支えるものとなっていた。


そして、世界の究極相たる「道」は、分別智によって把握されるものではなく、逆に認識作用を否定して、直観的に冥合する以外に、これを獲得する方法がない、と荘子は主張します。


世界の究極相を「道」という言葉によって把握したところに、古代中国人の形而上学の基本的性格を看取することができる、と述べます。


この「道」とは、道路のイメージ。多数の人間=人間社会全体が歩いてきたことで作られた跡であり、さらに未来に渡って作られてゆくもの。いずれにしろどこまでも続くもの。
そして「道」とは、人間によって作られるもの、時とともに不断に変化するもの、どこまでも連続するもの。「道」は本来、人間世界のものであり、むしろ人間によって作られる歴史的世界に重心をもつ概念だろう。


また『易』の「繋辞」に「一陰一陽これを道という」とも定義される。

「道」=プラス要因とマイナス要因が交替し、まざりあうものであり、プラス要因の極限においてすでにマイナス要因の萌芽をはらみ、動中に静を、静中に動を含む矛盾的統体。世界の究極相をこのような矛盾的統体において把握すること、世界をいわば弁証法的構造において把えることは、世界の本質を歴史的存在と見ること他ならない。こうした形而上学を基礎とする精神は、本質的に歴史的精神といっていいだろう。

14頁


例の勾玉二個くっついた陰陽道でおなじみのあのマークをイメージすれば良いのでしょうか。
が、そうだとするならば、あれは弁証法的構造というものなのか、僕には判断つきません。


さて、11世紀、北宋の邵雍、『皇極経世書』をここで紹介します。普通これは史書ではなく思想家の著書扱いなのだそうですが、氏はこれを史書として位置づけます。
というのも、彼の思想は『易』と数理に依拠しており、この世界の生成から発展を経て崩壊消滅に至るまでの一サイクルを12万9600年と計算、その中に人間の歴史全体を取り込んだ上、生成し消滅するこうした世界の一サイクルを「元」と名づけ、宇宙は「元之元之元之元」=「元」の4乗、2万8千2百11兆9百90万7千4百56億年という無限の生成消滅のサイクルを繰り返してゆくと考えるのだそうです。
これは、一陰一陽し不断に変化しつつ無限に連続する「道」の観念を極限まで展開したものであり、その意味で中国的歴史観の一面をもっとも拡大した形で示したと言える、というのです。


さらに付言すれば、『資治通鑑』を著した司馬光が深く尊敬していた先輩がこの邵雍なのだそうです。


また、邵雍・司馬光と同時代の程邕(明道)・程頤(伊川)らは、存在論と価値論的側面を論理的に統合しようとしていき、その彼方に朱子が、壮大な規模でそれを統合する。形而上なる「道」と「先王の道」とが、「気」と「理」という概念の関係によって、そして「理」の優先性によって体系化される。


しかし、この宋学の壮大な哲学体系は「理」を恒常不変と把握する傾向強かったため、「道」は固定化してしまった。この「理」を「理勢」とし、歴史の展開を「理勢の自然」という言葉で捉えたのが18世紀の章学誠。『文史通義』中の「原道」の文がそれ。


そして章学誠は、「六経は皆な史なり」とまで言い切ってしまう、有名なテーゼを打ち出します。
形而上なる「道」が一陰一陽の動きを孕む「理勢」である限り、歴史の展開は「理勢の自然」による「道」の自己顕示の「迹」に他ならない。


歴史を絶対精神の自己展開と見るヘーゲルのようではないか、と氏は指摘します。

理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的なのである、ともいいます。


六経つまり「聖人の道」は形而下なる「器」にすぎない、「道」の自己展開の「迹」にすぎない。それは決して「道」そのものではない。「道は猶お車輪のごときものである」のに対して、「聖人の創制は猶お轍のごとき」関係にある。
「守るべき器に拠って、見るべからざる道を思わなくてはならない」。
「見るべからざる道」=究極的な実在または普遍は、合理的分析的な理性によっては認識できない。ただ非合理な直観によるしかない、という考え方は、中国における基本的な認識論だった。

世界の本質を変化の相で捉える荘子にとって、変化を生み出す「道」とは、すべてを押し流し、相対化する均質な、空虚な時間の流れと映る。そこでは、小賢しい人間の価値判断は無意味。むしろ逆に、世俗的人間の価値判断、つまり「是非善悪」を主体的に放棄して、自己の精神を空虚静謐な状態に維持すること、それによって均質な空虚な時間と冥合することこそ、変化する世界を超脱しうる唯一の方法とした。いわば、永遠に流れゆく、空虚な時間の根底に居直ることであり、根源的な時間の流れと一体化すること。こうした根源的時間の立場から見れば、現実の世界における万物の変化生滅、つまり歴史は、その表層にあらわれる波動にしかすぎない。「歴史の恐怖」からの離脱、「歴史の撥無」は、荘子においては、むしろ歴史そのものの根底にある静謐空虚な根源的時間への参入によって遂行されたといってよい。

89頁


このような時間観念は回帰不能な、一方向的な、直線的な時間の認識といってよいのではないか。この認識は老子によって先鞭をつけられ、荘子によって明確化された。

「道」は陰陽相反する二つの要因の交錯循環するリズムからなる観念されるが、その循環は決して単なる回帰ではなく、「道」そのものは、「無始無終」の虚無的な、一方向的な時間観念を根底にすえていると氏は考えます。


中国の知識人一般は、このすべてを無価値化する、虚無的な、一方向的な時間の流れの観念を持っていた。この流れに屈服する時、宿命論的諦観が生まれるのは必然。だが、生きるということ自体が、この無価値化に対する抵抗である以上、彼らは絶えず何らかの方法でこれに対抗し続けた。

90頁


荘子はこの無価値化の流れを逆手にとって、自ら主体的にこの流れの根底に参入し、その底から、流れの中で右往左往する世俗の世界を眺めることに成功した=「逸民」=現実の世界と別の次元から、現実世界に対する冷静な観察者、純粋な認識者として、一種変わったタイプの歴史家になることもあった。北宋の邵雍、清朝晩期の龔自珍。



さて、それでは今回の主役たる司馬遷歴史観について見ていきましょう。

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III. 司馬遷歴史観

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まず最初に、『史記』は『春秋』以来個々の歴史的行蹟に対する倫理的批判の書という性格をつぐものであって、一般に中国の史書は過去の歴史に対して政治的倫理的考察を加えたものにすぎず、世界史の理念も歴史の発展の思想もない、という見方があるけれども、さしあたり『史記』が歴史に対する倫理的批判にすぎないという点から検討をはじめていきます。

そもそも、『春秋』は単なる勧善懲悪な意味での倫理批判につきるものではないと言います。

司馬遷はいう、「春秋は礼の義の大宗なり」と。礼は人間世界を成り立たせている秩序と解して差し支えないから、「礼の義の大宗」とは、つまり人間世界を成り立たしめる基本的な秩序原理という意味なのであり、『春秋』こそはそれを示すものだと、司馬遷は考えていたのである、と。

したがって、『史記』が倫理的批判の書であるということの意味は、単に表面的な善悪の基準によって歴史を批判したものという意味に解してはならない。それは人間世界の秩序を成立せしめる根本原理からの批判という深い意味をもつものであると指摘します。


歴史に対するこのような根本的批判が出てくる根拠は、いうまでもなく人間世界の運命を問題にする意識にあるだろう。実際に司馬遷は、単純な善悪の基準がそのまま通用するほど、歴史的世界が甘くないことを、身にしみて十分に認識していた。


「伯夷列伝」の「天道、是か非か」という有名な問いかけは、その意識を端的に示す。清廉潔白この上ない仁者・伯夷は非業にも餓死した。孔子の推称してやまない賢者・顔回は貧窮のうちに早逝せざるをえなかった。にもかかわらず、大ぬすっとの蹠という男は、日々罪なき人々を殺し、人の肉を食うといった極悪凶暴を重ねながら、ついに天寿を全うした。何という不合理!「天道にえこひいきなく、常に善人に味方する」と老子はいうけれども、はたして天道をそのように楽観してよいのか、という痛切な問いかけは、司馬遷において、いわゆる「道」とは何ぞやという問題が、老子よりもさらに徹底してつきつめて考えられていたことを示しているだろう。

12頁


この、列伝第一たる、「伯夷列伝」は、かつて内藤湖南が『史記』全体の序論と位置づけたもので、「伯夷列伝」のあまりにも有名な問い、「天道は是か非か」が司馬遷の歴史叙述における問題意識なのです。



人間の善悪という倫理的基準では測りしれないこの人間世界の真相=道とはいったい何であるのか、人間の善悪をこえて押し流してゆく時の流れ=歴史の過程とは何か、という問題意識こそ、司馬遷の歴史記述を生み出した最も深い根拠に他ならない。

12頁

また、司馬遷史記を書くに当たってこう言ったそうです。


‐父ぎみはよくこうおっしゃった。「周公がなくなってから五百年たって孔子が出た。孔子がなくなってから今に至るまで五百年になる。いにしえの立派な世を受けつぎ、『易伝』を正し、『春秋』を継いで、『詩』『書』『礼』『楽』の諸分野を基礎付づけることのできるものが出てきてよいときだ」と。そうだ、今こそそのときだ。そうだった。わたしは尻ごみしておれようか‐

28頁


このように、司馬遷の基本的な立場は「春秋を継ぐ」ことと「易伝を正す」ことの二本立てだと言えます。


では、「易伝を正す」とはどういうことなのか?
『易伝』とは、『易』の本文に対する解釈の部分。それを「十翼」と称し、彖・象・繋辞・文言・説卦・序卦・雑卦を指す。
『易』を「道」の哲学から解釈する傾向が顕著。形而下的世界の根拠、あるいは世界の究極相は、形を超えた、形なき「道」。


つまり『易伝』の哲学とは、陰陽矛盾を孕む統一体たる「道」に関する哲学であるということ。それは弁証法的世界観の哲学であると指摘します。
ですから、「易伝を正す」とは、弁証法的世界観を正しく把握すること、弁証法的歴史哲学を基礎にして世界を綜合的に把握するという意味に解することができるのだ、と。


中国では、絶対的超越的な神の観念は、少なくとも知識人の間では早くから消滅していた。人間の力を超えたものに対する畏敬の念はもちろん存在する。『論語』雍也篇、「鬼神を敬して之を遠ざく。知というべし」であって、畏敬の念は持ちつつも、しかも存在の根拠と価値の根拠とを、そこにおいて統合しうるような超越者を措定することは、真に「知」の名に値する認識とはいえなとされていた。
…かくて、司馬遷以後、中国の精神史における少なくとも一つの基本的な流れは、この「天道 是か非か」という課題の深化と、それをいかにして綜合し解決するかの努力の過程だっと考えることも不可能ではないだろう。
…形而上なる「道」の問題は世界と人間との存在根拠の方向に傾き、『易』と老荘道家思想につながる問題として深化される。それは漢代の讖緯思想から六朝時代の玄学、仏教哲学へと発展し、六朝から隋唐時代にかけて、この問題の深化が思想界の主流を占めることになる。
…他方、人間行為の「是非」の問題は、人間世界の基本的秩序原理・価値観の問題として、『春秋』ないし「礼」の学問を中心とする儒家の固有の領域であり、司馬遷以後の漢代では、この面が思想界の主流をなす。

51頁


ここで注意したいのは、漢代でも『史記』も『漢書』もいわば世界解釈の書だった。つまり広い意味での哲学書だったということ。

史学の自覚を促した恐らく最も早い著作の一つが、3世紀、晋代の杜預、『春秋経伝集解』。「春秋の大義」とは何か、つまり人間世界の秩序原理とは何か、という問題をきわめて合理的に解明しようとした。
杜預以前に『春秋』が史書の模範であるという考え方はない。そもそも、史書という観念そのものが明確でなかったといいます。


それが5世紀前半、劉宋時代に作られた大学では、玄・儒・文・史の四学。いまや『史記』も『漢書』も明確に史書の典型として確認され、オーソドックスな史学は『春秋』を範として、歴史的事実の記述であると同時に、価値規範を示す倫理学でもなければならないことが自覚されていきます。


こうして、今や「天道」の問題は玄学の専門となり、史学は「是非」の問題に専念するようになると。

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結 中国知識人のニヒリズムと歴史の価値

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最後に、中国知識人の歴史意識について、氏にまとめていただきましょう。


中国の知識人は、すでに二千数百年前から超越的な神の摂理を信じなかった。あらゆるものを相対化しかねない非人道的な「道」のもとで、ペシミズムと闘いながら、あくまでも人間世界への信頼を求めて独自の世界史を成立させた。神をもたぬ中国の知識人にとって、埋没せんとする人間の正義を発掘して史書に残し、これを永遠に伝えること以外に、著者自身を含む人間の救済はありえなかった。

18頁

かくて中国人にとって、青史に名を残すことは、この世に生きたことの最高の証しと観念された。生きることとは、歴史に生きることであり、それが永遠につながる最高の方法であると観念されいた。

徹底した「虚無」の時間軸は、キリスト教的発想の枠外にある。中国人にとって、キリスト教的な「歴史の撥無」、最後の審判と超歴史的な神の国の設定は、はじめから愚民の笑止な迷信にすぎない。近代の歴史主義によってもたらされた相対的な、無価値化する時間観念と同様に、あるいはそれ以上にニヒリズムに徹した時間観念の中で、中国人はどこに価値を見いだすか求めて苦闘してきた。その結果は、ニヒルな時間のただ中で、人間として賢明に生きること、「虚無」の時間を歴史に転化することにおいて、生きる証しを見いだしたといってよいだろう。

93頁

ちょっと気をつけたいのは、これらの氏の仕事が、論文ではなく、素描で止まっているという点です。もし氏が亡くならず、論文として中国の歴史思想を練り上げていれば、どうなっていたかわからないだろうとは思います。
今の時代に氏がこの問題に取り組んでいたら、また違った方向に進んでいた可能性もあるのではないかと。


しかしですね、何かが乗り移ったかのように熱い中国歴史思想擁護の書です。

最後、ちょっと筆滑らせたかな?とは思います。
というのは、キリスト教は虚無の思想と対決して、それでも「敢えて」ストーリーを選び取ったと思うのですよ。カタリ派とか。隠修士の思想の根底にある「現世蔑視」というのも、そのまま行けば虚無になるのを無理やり天国への入り口という「物語」を作って現世を生きようとしたように思えるのです。
大体、キリスト教は自殺を認めませんよね。
思うに、キリスト教は、敢えてストーリーを選ぶという執着心が強烈だったのではないのかとも。

それと中国の知識人は、敢えて虚無の中を生きることを選んだわけで、どちらも選択の問題なのではなかろうかと。
というか、これって、カミュのシーシュポスに似てるんでは?とは当時抱いた感想です。


まあ、氏自身、弁証法とか、実存主義とか、当時の西欧思想の言葉遣いで中国の歴史哲学を見ていると思われますので(見ざるを得ないのでもあるが)、その辺も差っぴいて見る必要があるかもしれません。


まあ、なんとうか、中国史西洋史でお互い誤解してたんじゃないのか、とは思いますね。



あと、後半の異端運動や仏教の論文は面白かったです。


初版は1986年ですから、色々割り引いて読まないといけないのでしょう。
国史で歴史思想研究っていうのは、不勉強なので今どうなっているのかさっぱりわかりません。
本書が今、一体どういう評価受けているのかちょっと気になりはします。


しかしですね、この司馬遷の「天道是か非か」という問いを知った当時、えらくしびれたもんですよ。
そんな思いで歴史を書いていたのかと思うと、凄いよ司馬遷、凄いよ中国、などとふるふるきたもんです。
気がついたら西洋中世史に進んでいたんですが。



おまけ:
史記』「伯夷列伝」web 拾い

http://www.geocities.jp/sybrma/128shiki.hakuiretsuden.html
http://www.geocities.jp/sei_taikou/hakui.html
http://kanso.cside.com/hakui.htm

*1:あとは東大の東洋文化研究所とか、やや研究機関としての括りがいいのかわかりませんが、東洋文庫っていうのもありますね。