SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS ANNEX

SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS 別館

教皇の身体 その1:「ペテロの年」と「シルヴェステル2世の墓」伝説、「パピルスの枕」の儀礼


さて、現教皇が亡くなられたため、これからコンクラーヴェ教皇の埋葬儀礼、新教皇の登位儀礼など、教会上極めて重要な儀礼が目白押しになるかと予想されます。


現行の教皇典範がどうなっているのか詳しく知らないのですが、中世史研究では、この教皇儀礼の研究が1990年代から注目されるようになりました。


その記念碑的作品が、教皇研究の泰斗、アゴスティーノ・パラヴィチーニ=バリアーニによる教皇の身体』という研究です。


Paravicini - Bagliani , Agostino . , tr . by David S . Peterson , The Pope's Body (The University of Chicago Press , 2000) .(tr . from Il corpo del Papa , Torino , 1994) .


数年前に読書会で取り上げて読んだんですが滅茶苦茶面白い。


以下、少々中世の教皇埋葬儀礼についていくつか取り上げてみましょう。けっこうマッシヴな分量になってます。


中世、特に11世紀から、教皇の在位の短さ、つまり教皇の短命さが問題とされるようになりました。その先鞭をつけたのが、当時のカリスマ的隠修士であり、その徳の高さから教皇に請われて枢機卿にまでなった、ペトルス・ダミアーニによる『短命について』De brevitate という論稿です。


これは教皇アレクサンデル2世宛ての書簡なんですが、主に3つのテーマを扱っています。


① 教皇の短命
② 全ての創造されたものへの教皇の地位の優越
③ 教皇の死すべき運命


ここで、「なぜ教皇は長く生きれないのか、短期間の内にいつも死ぬのか?」と問われます。そしてダミアーニは、次の「事実」を発見します。
つまり、聖ペテロの教皇在位期間である25年よりも長く教皇に就いた者はいないという「事実」にです。
そして、ダミアーニがこの論稿を書いている時期はちょうどペテロの死から最初の千年まであと3年という時期(1064年)。


そこでダミアーニは以下の返答をします。


① 教皇の中にも「ペテロの年」に近づいた教皇もいたと、現教皇を慰める。
② しかし、「ペテロの年」を越えた教皇はいない。
③ 教皇の身体が死すべき運命にあることを強調。
④ 教皇の短命とは、他の司教や王と区別する基本的な特徴であり、神によって意図された独特の現象である。教皇の一生というものが最も濃いものであるから。教皇の死とは、この世の栄光の空しさを象徴するものであり、全人類を死の準備へと駆り立てるものである。
⑤ 教皇の「自然な」死を「しばしば剣によって死ぬ」王の死と対比される。
⑥ 教皇の謙遜を短命や「ペテロの年」で促進しようとした。 


このように、ダミアーニは教皇の短命さを通して、教皇の身体の特殊・優位性と同時に、教皇に対して謙遜を持った振る舞いをすべきと教訓的指摘をするわけですが、一方でこの「ペテロの年」伝説が11世紀末から現われてくるようになります。
以後の歴代教皇には、この「ペテロの年」と比較されながら、その教皇の評価が下されるようになっていくのです。
中世でも、この「ペテロの年」を越えてしまった教皇もなかにはいますが(ベネディクトゥス13世、位 1394−1423年=在位29年)、彼は非難の対象とされてしまいます。


この伝説は、教皇レオ13世(位1878−1903年)の時まで、教皇権にとって重要なトポスとされていました。


また、もう一つ興味深い伝説があります。それが「教皇シルヴェステル2世の墓の伝説」です。
これは、教皇の死が近づくと、この墓から水が染み出てくるという伝説です。


この伝説は12世紀頃から流布しました。


この伝説を調べて見ると、原因はラテラノ大聖堂にあります。
ラテラノ大聖堂は、コンスタンティヌス帝が教皇シルヴェステル1世に与えたとされる由緒ある聖堂です。つまり、ラテラノ大聖堂の威光を高めようとするために作られた伝説と考えられるのです。


ここには12世紀、12人中10人の教皇が埋葬されています。
そして教皇の埋葬には古代ローマ皇族の石棺が使用されていました。例えば、インノケンティウス2世はハドリアヌス帝の最初の石棺を使用し、アナタスタシウス4世はハドリアヌス帝の母后ヘレネの石棺を使用しています。
つまり、ローマ皇帝権を利用している。


これが13世紀後半になると、さらに「骨がガタガタと鳴る伝説」が加わります。
教皇の死が近づくと、シルヴェステル2世の墓で、ガタガタと骨が鳴り、水が染み出てくるというのです。


ここでは、水が染み出る伝説が2番目に来てしまいます。その理由として、


① 13世紀の多くの教皇はローマの外で死んでいた。
② ヴァチカンの丘が教皇の滞在場所になっていった。つまり、ラテラノ大聖堂の重要性が低下していた。


と考えられています。


教皇の死を告げるメッセージが強化され、その他の要素が失われていったのだと考えられます。


さて、伝説はこのくらいにして、教皇の埋葬儀礼について幾つか見て行きたいと思います。



一つが「パピルスの枕の儀礼」です。


これは毎年、灰の水曜日に行われ、サンタ・サビーナ教会まで裸足で行列を行い、そこでミサをし、司祭がパピルスを蝋燭の蝋に浸し、それをラテラノ宮殿で教皇に渡す。教皇はそれを祝福し、教皇が死ぬまで注意深く保管する。そして教皇の死後、このパピルスで枕を作り、死んだ教皇の頭の下に置くという儀礼です。


これはどうも帝政ローマ期の儀礼の模倣だと解釈されています。
そして、この儀礼教皇の身体の死すべき運命とその権力の儚さを表す儀礼の一つとされています。


以上、今回の紹介はここまでにしたいと思います。
今回のポイントは、何よりも、11世紀に、ペトルス・ダミアーニによる教皇の身体の「発見」の意義が重要です。


彼は、教皇の身体を通して、教皇の謙遜と死すべき運命を指摘し、さらに教皇の身体の特異性を指摘します。また、教皇の身体の特異性と同時にその脆さが教皇権の潜在的弱点の源であり、同時にそれは全キリスト教徒の手本とされるべきものであるという考えを初めて打ち出しました。


「ペテロの年」の法則は以後19世紀まで歴史的有効性を保持するようになります。11世紀以来、教皇の長い在位期間は神による正当化を必要とするほどに。


そして、ペトルス・ダミアーニ以後、教皇の死すべき運命・権力の儚さという考えは、ローマ教会の典礼に定着していきます。それがパピルスの枕の儀礼などです(他に灰の儀礼、亜麻布の儀礼がある)。


しかし、ここに教皇の身体の死すべき運命と教皇の優越性・普遍性の間に矛盾が生じています。それが教皇の謙遜を修辞的・儀礼的にして話を複雑にしていると考えられます。


教皇の儚さにまつわる儀礼はローマ時代の儀礼慣行を固定させることで、皇帝の模倣を試みています。それは皇帝権と教皇権のバランスを確立しようとするものであり、さらにそこに不可思議な事象を盛り込むことで強化しようとしている。それが教皇シルヴェステル2世の墓の伝説です。


以後、教皇儀礼は発展していくわけですが、そこでは教皇の死すべき運命と権力の儚さが全教皇の関心事になっていきます。それは教皇の身体と人間性に関わる問題とも言えます。


ペトルス・ダミアーニによる警告は、教皇の生と死が全キリスト教とのモデルとなるべきものであり、教皇の短命というものによって他の君主から区別されるものである。ひいては、それが教皇の権力の、聖と俗の性質、2重の特徴を有するのだと。


権力とイデオロギーが身体とそれに関わる儀礼の上でいかに展開されるか、中世の教皇の身体はそれに興味深い光を投げかけてくれます。



The Pope's Body

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