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まだ打ち込まなきゃならん文献が山の如し…
また腰痛がしんどくなってきた。
この前、神学テクストと説教テクストの区分を13世紀してたのかということを書きましたが、http://d.hatena.ne.jp/chorolyn/20050918
13世紀、説教をもとにして論考が書かれるようになるということが、ロベール・ド・ソルボンのテクストや、トマス・アクィナスなどに見られるということは判明しています。
しかし、13世紀の連中が果たしてどれだけ先人なり、同時代人の書いたテクストをちゃんと読んでいたかっていうのはかなり疑わしい。
大体この時代から、虎の巻が流行り、まともにオリジナルテクストを読むということがされなくなると指摘されています。
飛ばし読み、まさに「つまみ喰い」の時代というか。
13世紀はアリストテレスが流入したことが思想史上最大のポイントとなると思いますが、実際、アリストテレスをちゃんと読みこなしていた人間がどれだけいるか。
教師ですらわかって無いやつ多かったと言われるし、アリストテレスの影響で論理学、というか論証のスキルが磨かれたけど、その思想の中身を十分読み込めた人間となるとごくわずかということになるらしいですし。
13世紀は、中世版百科全書的知が現われると言われますが、これなんかも、要は手っ取り早く必要な知識を得たいという要請から生まれたものだとも指摘されています。
個人的には、手っ取り早さもさることながら、こういった虎の巻系テクストを書いた連中の大半が托鉢修道士であるということ、そして彼らのメンタリティーの根幹というのは、知識の蒐集レヴェルでとどまらないとは思っていますが。
スコラの知が飛ばし読みからなるとすれば、原典講読回帰はルネサンス、人文主義の台頭のおかげだとか言うけれども、これもどの程度一般化できるのやら。