SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS ANNEX

SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS 別館


さて、西洋中世史学徒にとって、昨年最も話題を呼んだであろう研究ツール、『西洋中世学入門』について。


西洋中世学入門

西洋中世学入門



特に後半第2部「西洋中世社会を読み解くための史料」の割合。


「統治・行政文書」、199−228頁、内、本文34頁。
「法典・法集成」229−254頁。本文21頁。

この2章の本文合計55頁。

そして、
「叙述史料」255−274頁。内、本文13頁。
「私文書」275−291頁、本文15頁。
「教会文書」293−312頁、本文11頁。

3章の本文合計39頁。


見てわかるように、いわゆる document 史料の解説の方が分量が多いんですよね。

で、何が言いたいのか?

別に narrative 史料の扱いが疎かだとかクレームつけたいからというわけではありません。


日本に限らず、世界的に見て、document 史料の分析のレヴェル・研究の蓄積が相当上がっている表れなのでは?ということなんですよね(もう一つは、文書系史料がより重要な史料と考えられているから?)。


特に、証書系の分析のレヴェルは、近年相当上がっていて、この界隈の優秀な日本人研究者もごろごろいるわけです。
で、こうした document 史料を扱う研究者たちによって、従来の narrative 史料を使った研究成果に対して再考を促すような指摘も出てくるようになってきていると思います。
特に、「教会史」で従来括られていた分野に対して。


こうした風潮もあって、最近、narrative 史料を使う人間が何となく肩身の狭い思いをしているように感じているんですよね。
まあ、単に僕だけがそう思っているのかもしれませんが。


これまでの narrative 史料の使い方がナイーヴ過ぎやしないかい?と、文書史料を扱う側から言われているように思うことが多くなったと感じます。


で、実際、それは仰るとおりで、かなりこれまでの narrative 史料の使い方って問題があったように思われます。
史料を「ベタ」に読みすぎたというか。


いや、もちろん、文書系を扱う人の叙述史料の扱い方でも「ベタ」だと、僕が思ってしまうようなのもありますし、叙述史料を扱った研究で良質な作品もあることは承知しているんですけどね(といっても、そういうのに限って、本業が文書系史料を使う研究者の作品だったりする)。


全体としては、ナラティヴを扱う人間にはちと風当たりがきついように思うんですよ。


その背景の一つとして、document 史料の分析の方法はかなり洗練されてきていると思うんですが(当然蓄積が深いわけでもあるのですが)、方や narrative 史料の分析は、まだ、個々の研究者のセンス次第の部分が大きいように思えるからだと思いますが、どうでしょう?


確かに、叙述史料は扱うのが難しいし、ジャンルによって、扱うレヴェルがかなり難しいジャンルもあるので、相当厄介な代物ではあります。


僕がメインに扱う、説教史料群もいくつかのタイプがあり、しかもいずれもまだ分析の理論化がそれほど進んでいない現状です。
僕も、なんとかしないとという思いを強く持っています。


そんなわけで、『西洋中世学入門』を手にとって見て、narrative 史料をメインに扱う者の端くれとしては、叙述史料分析の理論化にゆくゆくは何らかの貢献したいという気持を、改めて強く持った次第でありました。