SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS ANNEX

SCHOLASTICUS LUGDUNENSIS 別館

 『安田講堂』


これもストックから。猫屋氏ご所望の一冊の一つ(ですよね?)。


安田講堂 1968‐1969 (中公新書)

安田講堂 1968‐1969 (中公新書)



例によって、団塊の世代が定年し始める時流に乗った書物の一つ。
最近、1968年辺りを回顧する出版物が、ちらほら見かけるようになったのは、このせいなんだとか。

さも便乗商法のように聞こえますが、内容はアコギなものではまったくありません。念のため。


著者は房総自然博物館館長、日本野生生物研究センター主任研究員を経、現在 NGO 日本アイアイ・ファンド代表を務める。http://www.ayeaye-fund.jp/
1946年生まれ、東大理学部在学中、東大闘争に参加、安田講堂に籠城し、懲役2年を受ける。

つまり、あの安田講堂に最後まで残って闘った人による回想録。


正直、よくここまで書いてくれたと思います。あの事件を直接経験した人はなかなか語れないと聞きます。大概、この事件を語れる人は、実は大して関与していない人の方が、さも渦中にいたかのように語っているのではないでしょうか。この辺も戦争経験者と似たような痛みを持っているというか。空襲も碌に体験したことのない、疎開できたボンボンが、さも戦争体験者面するどこかの知事さんやら、ドイツ哲学者やらを想起させます。本当に痛みを知ってしまった人は、その痛みを語ることはできないといえばいいんでしょうか。


逆に、この世代の人から言わせると、生ぬるいとか、美化しているとか言われるのかも知れません。
これはより年長世代や後続世代から見てもそういう印象を持つかもしれません。
でも、僕としては、当時の「青さ」そのものも隠さず示してくれているので、それはむしろ好感が持てます。
全体の印象として、確かに美化というか、正当化しているように取れるところもあるんですが、この事件を「客観的」に書けって言う方が無理な話で、そちらの方がかえって胡散臭く思えます。


いいんですよ。この本は彼ら世代にとってある種の「癒し」の書でもあるんでしょう。
これを書くことは、痛みであると同時に癒しなんですよ。たぶん。




発端は、1968年1月、ヴェトナム戦争に投入するため、ミッドウェー海戦の「立役者」、原子力空母「エンタープライズ」が佐世保入港。
これを阻止すべく三派全学連の部隊が九州に上陸したことから本書は始まります。で、この時初めて、催涙ガス弾なるものをぶち込まれたと。
余談ですが、この催涙ガス弾ってとんでもない代物ですね。ガス液に触れるとすぐ水脹れる、ヴェトナム戦争アメリカ陸軍も使用した『CN』というもので、僅か0.5ミリの量で中毒症状を起こして呼吸麻痺、それを15時間経過すると死に至るんだとか。立派に「毒ガス」と呼ぶべき代物ですね。今なら「劣化ウラン弾」と呼ぶか「小型核兵器」と呼ぶかというような感じでしょうか。これを病院前でもブチかますっていうのはどうかしてるよ機動隊。


そして1月19日、東京医科歯科大学が「登録医制度反対」を掲げて全額無期限ストライキ、東大医学部も29日から無期限ストに入る。そして3月11日の医学部からの不当な処分が、闘争の引き金をしぼっていく。


つまり、全共闘は、インターン制度という、若い医師の使い捨てに対するプロテストがきっかけの一つということになります(日給2千円でこき使われた、研修医の過労死についての訴訟がが2005年にありましたが、問題の根はここまで来ていたものだったということです)。
そして、この不当処分の最終責任者、東大総長大河内一男へと的が収斂されていく。


さらに大きな動きが日大から湧き上がってくる。1968年5月23日、日大経済学部前でのデモ。
当時の日大というのは、全国の大学の中で唯一学生運動が無い大学と、日大当局が自慢するほど、暴力的学生管理体制を敷いていて、学生が声をあげる余地が無かった大学だった。学生部の下に学監と学生指導委員が置かれ、さらに大学本部直轄の体育会と各学部の体育会系運動部が学生一人一人に至るまで監視していたという。共産圏ですか、これは。
ちなみに、体育会系っていうのは、大学当局の暴力装置として見事に機能しているというのが、後々顕著になります。


まあ、当時の日大の腐りっぷりは見事です。
68年1月に理工学部教授小野竹之助への裏口入学礼金事件、3月に東京国税局が日大経理へ監査、直後、経済学部会計課長が「蒸発」、さらに同月末、理工学部会計課徴収主任が「自殺」。4月に国税局は、5年間で日大は20億円の使途不明金があると発表。


で、このような「暴力的な」日大の後ろ盾が当時の首相佐藤栄作岸信介大平正芳三木武夫田中角栄福田赳夫中曽根康弘やら松下幸之助堤清二やらと。
つまり大学が政財界の金づるとして機能していたらしいと。多額の使途不明金はこの連中に流れていたんでしょうねと。学生の親から金を吸い上げて、大量の学生を入れられる程の設備も無いくせに、キャパの何倍もの学生を受け入れ、まともな学問教授も行えず、失望した学生が雀荘やバイトに明け暮れると。


そして5月、後に「全共闘の雄」となる、日大経済学部4年、秋田明大が登場すると。
同24日、800人の学生が集まった経済学部の抗議集会に、日大当局は体育会・右翼を投入。いきなりそれかよ大学。
しかし秋田明大の鼓舞に力を得た学生達が血みどろになりながらも抵抗。たまらず当局は校舎入り口を封鎖。追い出された経済学部に法学部学生2000人が合流して、デモ。
こうして同月27日、5000人とも1万人とも言われる各学部学生を集結し、「日大全共闘」が結成される。


しかし、当時の日大当局っていうのはアホですな。ただの学生の集会にいきなり暴力で押さえつけるって。しかも右翼って。
まだ学生も武装してないと思うんですけど。というか、こういうことが、角材持って歩く学生を生み出したんでしょう。


これだから学生は当局を「敵」、暴力装置と思っちゃうよね。大人を交渉相手・連携相手として見ようという意識は生まれづらいのかもと思ってしまいます。


座り込みしている学生に右翼が車で突っ込んだり、体育会学生が牛乳ビンや角材を持って殴りこみして、内臓損傷、腎臓出血させるほどの暴力ふるうんですから。はなから学生殺す気ですからね。大学はこれを容認しているということでしょ?日本刀などを持った学生課職員・暴力団って何なんですか。

しかし、こういうことって、当時どれだけ報道されたのか。


かたや東大も、6月15日、医学部闘争の突破を狙って、医学部全闘委による安田講堂封鎖。
これに対し、当局はさっさと警察に出動要請、機動隊1200人が本郷構内に入る。


東大当局もアホです。自分達がビビッているからって相手をビビらせてどうするんでしょう。
そんなに学生に暴力ふるわせたいのか。
なにやら北朝鮮のチキン外交を彷彿とさせます。


そして同月17日の東大総長の措置がさらに学生を激怒させる。自分のやったことを棚にあげて非を全部学生にひっかぶせると。


これを著者は「東大型知識人」と呼び、自分の権力のために「下」の者を切り捨てても平気、というか、自分が権力(暴力)を行使している事すら自覚がない性格になっている連中だと痛罵します。


さて、同日、安田講堂前で300人を越える抗議集会が開かれ、院生を中心に全闘連が結成。代表が理系院生の山本義隆
この人が、日大の秋田明大と並んで全共闘運動の双璧となる人物。


余談ですが、前に某先生が教えてくれた「やじり芸」、「ナンセンス」が出てきましたよ。ついでに「異議ナーシ」も。
ちょっとほくそ笑んでしまいました。


やはり気になったのが、7月の安田講堂再占拠の時。講堂周辺に「テント村」ができるんですが、「ノンポリ」学生らによるテント募集の呼びかけ方。「お持ちの方は貸して下さいませんか。」
「暴力学生」は「参加しよう!立て!」と勇ましいというか、今聞くと、お前は何様だというような呼びかけ方との違い。


この辺の立ち回り方も惜しい気がする。
著者も書いていますが、ここでお互いに大した違いはないという気持があったなら、もう少しましな終わり方があったように思えます。


さて、こうした占拠からバリケード・泊り込みの闘いに突入するわけです。
まず、日大のバリケードの凄さが紹介されます。それくらい大学当局と私兵体育会系学生、右翼の攻撃は執拗で脅威だったらしいです。


11月に東大に来た日大生が、東大のバリケードがちゃちだと言って指導するっていうのは、中々笑えました。
あと、女子学生は怪我人介護に回るとか。
東大だと、バリケードの中で連日会議が行われていたが、当時東大では「稀少」だった女子学生も「同等」に参加していたとか書かれていますが、うーん、と。

まあ、介護に回るというのはわかるんですよ。特に日大の場合、バリケードの外に出るとすぐ襲われる危険が高かったんですから、できることが限られていたのだろうと。

あと、日大では猫を飼っている女子学生がいて、学生達は「レーニン」とか「毛沢東」とか好き勝手に呼んでいたとかのエピソードは面白かった。


そして、9月、ついに共産党が東大に介入。
宮本共産党は、バリケードによる闘争を否定、暴力を使ってでも阻止すると宣言。
宮崎学率いる暴力専門の秘密部隊、「あかつき部隊」を投入。早大150人、各大学から選抜された剣道、空手、柔道有段者の武装したツワモノが、東大教育学部に根城を。
共産党が、東大生同士の争いに、ついに暴力の止め金をはずしてしまった。

共産党は、東大での指導力を取り戻そうとしての措置だったと。この時点で、共産党もアホです。

方や日大も機動隊と学生の衝突から、ついに機動隊員に死者が。
この瞬間から日大全共闘は国家権力との直接対峙した闘いになり、秋田明大刑事告訴人として全国指名手配と。

しかし、この弾圧から、日大全11学部がついにスト突入。
たまらず日大会頭が交渉に応じることに。9月29日、日大両国講堂集会へ。2万人参加。
会頭の自己批判と、日大生勝利の日に。つかの間ですが。

そして同月、東大も全学無期限ストに。


10月。日大当局による右翼動員数激増。
これを日大芸術学部(芸斗委)が寡兵ながらも撃退。勇名を馳せる(だんだん記述が戦国時代かと錯覚するようになってきた…)。


11月。東大では共産党の足の引っ張り、12日、総合図書館前で「あかつき部隊」と全共闘が衝突。
おいしいのは当局と。
さらに共産党教養学部にも現われて駒場共闘による封鎖を阻止。学生間分断を進める。おいしいのは誰?
22日。「日大・東大闘争勝利」全国総決起集会。これはすごいイベント。安田講堂前に全国からの数千の全共闘学生が埋め尽くし、日大「無敵の勇士」たちが入場する(なんだか族の集会みたいな記述になってきた…)。そして「主役」秋田明大(『特攻の拓』みたい…)。
書き方が凄い。「まぎれもない男がいた」、「『男の子は、敵の返り血を浴びてこそ』と武士が我が子に語った、その男がいた。」ですよ。
古館もびっくりのナレーションです。

ただ、このイベント、学生がたくさん集まったというだけで、大学や党派の枠から抜け出せず、大同団結できなかった。東大・日大の合同闘争本部を作って置くべきだったと著者は言っています。政府は一体化して反撃を用意しているのに。
その意味で、もったいない。

で、こうした裏で、11月26日、日大父兄会が大学に屈服される。親が子を見捨てた日となる。辞任するといっていた会頭は居残り、使途不明金は告訴されず。


12月。内ゲバが東大で横行。全共闘共産党全共闘内の抗争と2重の抗争に。おいしいのは誰?
スト解除が法、経、教養学部教養学科で。分断進行。
共産党キャスティングボート握ろうとスト解除に微妙な態度を取り続ける。コスイよ共産党。おいしいのは誰?


1月。10日、加藤総長代行と7学部代表団との集会。学生側の「降伏」文書。この集会の議長が町村信孝。ほぉ〜。よくもしゃあしゃあと。
で、どんどん追い込まれていく全共闘
16日、加藤代行、機動隊出動要請。指揮、佐々警備第1課長。日テレでよく喋っている人ですね?
この時点で、安田講堂に残ったのは100人もいない(最終的には東大以外も含め377人いたらしい)。かつては本郷5000人と言われた全共闘が。

ここで、当時の彼らが何思っていたのか、獄中書簡の証言が引用されているんですが、何が何だか意味不明文章。
あれ書いている本人もよくわかっていないのではないか。

例えば、本郷学生守備隊長(=著者)。


ちょうど、日大生の闘争が東大闘争に『占拠した校舎を破壊しないなんてナンセンスだ』という衝撃を与えた時、日大闘争は、校舎が資本の現実の姿として、日本大学資本の圧制の肉体化として見えなければその闘争は嘘だということを東大闘争に指し示した。東大生は『退廃しているのは我々自身だ』という鋭い自身の切り込みを行いつつ、自由な自己活動の外観の下、万人の万人に対する戦いを闘いつつ競争を通じて資本の下に隷属して行く、エリート=東大生=自らを見出したと宣言した。


僕は言いたいこと掴むのにえらく時間がかかりました。

それに比べて、東大院生女史 K さんの証言。


1・19に講堂内で逮捕されたとき、私がすでに背負っていたのは、それまでの東大闘争の不徹底さゆえに、全国学園闘争、なかんずく日大闘争の闘う同志たちに負わせてしまっていた精神的・肉体的打撃の重さであり、ファッショ的な10項目収拾路線によりもたらされた全共闘の後退局面でした。これらの負荷を受け手立ち、跳ね返すために私たちは闘ったのです。1・18のゲバルトは、それゆえ、単に国家権力の貫徹を一時的にせよ阻み、拠点を防衛する事自体以上に、あの10項目ファッショの中で、機動隊の導入がまさに行われようとしていた日々に、自分の将来のかかった東大という資産の資産価値を守れたということに素直なよろこびだけを示していた何人かの人々の感性に示されていた日本社会の、『東大人』の精神空間を打ち壊すことに向けられていました。
 投げ降ろされる石の1個1個に、火炎ビンの火柱の一つ一つに、このような感情がこめられていたのを、外に居た人々は見たでしょうか。



一文が長いのは似てますが、こちらの方が僕としてはまだ読みやすかったです。


ところで、文学部で講堂に残ったのは2人しかいなかったそうな。

さて、機動隊導入の大義名分、全共闘安田講堂内にニトロを持ち込んだのでやむを得ず撤去ということなんですが、著者は完全否定。
当時のマスコミが政府筋に煽られて流したデマだと。「イラク大量破壊兵器」を思い出しますな。

18日早朝から機動隊が動きますが、これと一緒に行動しているのが林健太郎文学部長以下、文学部の教授・助教授たち。どういう意図だったんでしょうか?

で、激しい攻防戦が始まるんですが、機動隊がお粗末なんですよね。ガス銃の水平射撃で学生の目玉を抉るくらいに顔を潰したりと容赦ないし、ヘリから催涙ガス液撒いたりと派手なことはやるんですが、大した効果なし。やることなすことは準備不足、調査不足。挙句、放水車の水が出なかったら、もっといいやつを出してくれなかった財政局が悪いとか、建物に横付けできると思ったら、植え込みがあってできなかったとか、もっと調べてから来いよと。ミスをとにかく人のせいにする日テレコメンテーター。
この機動隊指揮官、土日出勤に文句を言い、攻撃計画がずさんでも大学が悪いと言い訳し、自分たちが確かめなかった放水車の整備不良を予算の問題と逃げ、昼食休憩しながらの封鎖解除でも食事代の不足をおっしゃっている模様。のわりには、学生達は甘えてるとか書き連ねているんだとか。


この日、12時15分、中大学生会館前で全都学生総決起集会が開かれ、2000人が集まり、東大へ行進。
1時間後、御茶ノ水付近で機動隊と衝突。この集会がもっと早かったら2正面作戦を機動隊はしなきゃならなかったのにと、著者はコメント。


こうして半日持っていいほうだと思われていた攻防戦は翌日に持ち越し。

翌19日、消防の高圧放水車が攻撃に加わり、攻め手が一気に有利に。
活躍しているのは機動隊ではなく消防。どうした機動隊指揮官。
守り手は補給無しもあって、ずるずると突破、そして陥落。
最後は加藤代行による降伏勧告。東大が警察権力に屈服された日に。

そして逮捕、起訴。
負傷状況。どうも逮捕後の警察のリンチのほうで負傷しているのが逮捕者中70%ほどいたらしい。


最後に著者によるまとめ。



新書なのに厚い本ということと、貴重な証言なので、あえて細かくと内容を紹介してみました。
やはり慣れないことはするもんじゃないなと。




あえて無理やり感想をまとめると、この運動は、「もったいない」と「つながることの難しさ」で括れるでしょうか。


サブ感想としては、日大全共闘は凄い、右翼・大学体育会は下衆、共産党もアホ、そりゃ民青嫌われるよ、林健太郎…あ〜あ、町村信孝は見事なまでに「A級」など。あと、「大人は汚い」とか。


細かい所で突っ込みたいところはいくつかあります。
4月の入学式阻止のために安田講堂正面入り口で張ったピケの裏をかいて、当局が裏口から入って入学式を敢行した「姑息」な方法とか。それは「姑息」なんだろうか?と、逆にどうしてそこまで思い至らなかったのかとか。わりと随所にこうした「青さ」が目につきはします。


確かに、彼らの思いが「清清しい」というのはわかりました。んが、後続世代から言わせて貰うと、「もっとうまくやってくれよ」と、どーーーしても思ってしまうんですよね。著者は「青空が見えた瞬間」と呼んでいますが、それだけに「もったいない」。


後でも触れますが、やはり「自分達だけ」で凝り固まった感が拭えない。ヴェトナム戦争との共感、「世界」と繋がる思い、など、他者を自分達はしっかり思っていたというようなことが述べられていますが、だったら、もっと大人や、同世代で働いている連中、後に続く連中のこともしっかり思ってやれよと言いたくなるんですよね。実際、日本のフェミニズムがこの運動に関わる男に失望した中から生まれたんだと、確か上野千鶴子が言っていたと思いますが、自分の近くにいる女性のことすら、ちゃんと慮ってやることができていなかったんじゃないかと。


僕の学部時代の亡くなられた恩師への、学生による退官インタヴューの中で、この時期の学生たちをどう思うか、と尋ねられて、その先生は、「愛憎併存」だと言ってました。

だから、「うまくやれ」ば「つながる」ことができたかもしれないと思ってしまうわけですよ。ハタから見ると。

もちろん、著者も最後に、「もしも」あの時、あの「憎き」共産党とも連携できていたら…と触れています。ついでに言うと、べ平連ともうまくつながっていれば、もっと違ったことになっていたかも知れないかなと(著者はなぜかべ平連については確か触れていなかったかと)。これもこの世代の方に言わせると「とんでもない!」と言うのかも知れませんが。


〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性戦争が遺したものなどを読んでいたせいなのかも知れませんが、どうしても彼らに対して「辛口」評価になってしまいます。


やはり、「あえて」手を結ぶことって、この時ほど重要だったのではないのでしょうか。

あんまり言うと、じゃあ、お前がその時いたらどうやっていたんだ言ってみろとか、後続世代が被害者ヅラして高みにたって、先行世代を叩いてるとか言われそうなんで、この辺にしときます。


いずれにせよ、連帯・つながることの難しさを示した運動だったように思えます。

でもやっぱり、「もったいない」。(実はもったいないどころか、後の時代を考えると日本史上の「悲劇」だったのかもしれませんが。)


たぶん、僕ら世代から見ると、「安田講堂」イメージっていうのは、当時TVで流された放水とヘルメットとマスクと角材で、フォークソングとロンゲ・メガネのむさいアンちゃんだったと思うんですが、どうでしょう?そんで「浅間山荘」と。

なもんで、あまりいい印象持っているはずもなく。


この運動に参加した若者って、まさにウチの両親世代ですが、両親ともども北海道の果てで、大学などに行く金も頭もない人たちでしたから、彼らに対してかなり冷ややかだったと記憶しています。所詮、東京の「ガリ勉」共が親のスネ齧って、偉そうに御託並べて暴れてるっていう印象のようです。


この全共闘の失敗って、縦の世代の連携(特に年長者との)が取れない時点で失敗して然るべきだったと言われますが、すでに同世代からも断絶してしまっているんだから、こりゃいくらその思いが純粋であろうと無理だよね。

しかし、この世代間回路開通不能現象っていうのは、切実で、ちっとも過去の遺物になっていないということも、やはり重く見ないといけないと思いました。だから「バカの壁」などという本がでてくるわけで。今は世代間断絶どころの話じゃなくなってますからね。


この問題に対する有効な処方箋を早く出さないと。
そうすっと、やっぱりキーワードは「コミュニケーション」ということか。
で、幸か不幸か、己の素材はタイムリーってことにもやっぱりなるのか。う〜む。
…重いっすねぇ。


それと、全共闘指導者の「双璧」の一人、東大全共闘議長 山本義隆http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E9%9A%86
この名前を見て、あれ?どっかで聞いたような…と思っていたら、あの『磁力と重力の発見』の人ではないですか。

磁力と重力の発見〈1〉古代・中世

磁力と重力の発見〈1〉古代・中世

磁力と重力の発見〈2〉ルネサンス

磁力と重力の発見〈2〉ルネサンス

磁力と重力の発見〈3〉近代の始まり

磁力と重力の発見〈3〉近代の始まり

己の無知を恥じれと言いたいですよ。

科学史・思想史の界隈では常識なのかもしれませんが、何分、「一般史」畑の人間なので、同じ人物とはつながっていませんでした。


しかし、もの凄い人だということを、恥ずかしながら知りましたよ。野に下り、塾講師をしながら、『東大闘争資料集』全23巻という、超1級史料をまとめ、尚且つあの『磁力と重力の発見』全3巻を上梓している。

ちなみにこの資料集、ビラだけで4000件(!)収録ですよ。これを日時順に整理して23巻、あしかけ22年ですから、凄まじい仕事です。100年の偉業かも知れません。

舌を巻くというか、脱帽というか、うまい言葉が思いつきません。

「烈士」ってこういう人を指すのでしょうか。


さらに余談ですが、著者は「義」という言葉をよく用います。それでふと思ったのが、子供の頃見たヒーローもの(特に特撮?)って、「正義は必ず勝つ!」でしたよね?もしかして当時の作り手って、やはりこの世代だからだったんでしょうか?彼らにとって、正義・義がまず共有されていたものだったんでしょうか。見当ハズレの感じ濃厚ですが、ちょっと気になりました。