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ナタリー・Z・デーヴィス:『古文書の中のフィクション』


古文書の中のフィクション―16世紀フランスの恩赦嘆願の物語 (平凡社選書)

古文書の中のフィクション―16世紀フランスの恩赦嘆願の物語 (平凡社選書)


16世紀フランスの恩赦嘆願状における「物語」の研究。
国王恩赦嘆願状は、当然のことながら史料的に「文書史料」document の範疇に入るものであって、「叙述史料」narrative に比して「客観性の高い」史料とされるわけですが、そこに書かれてる「フィクション的」特質を指摘する。つまり書き手が犯罪事件を一つの物語(ストーリー)に形づくってゆく際のその話の膨らませ方があるということを、文書庫に眠る約4000通の国王恩赦嘆願状からつまびらかにしていく良作。

「文書」とはいえ「物語る」それなりの型=コードがある。それは国王と裁判所を説き伏せる法律的嘆願文であり、個人の過去の行為の歴史的報告であり、さらには一つの物語だということ。その3つどれにも、作り上げることと組み立てることの役割があった。:

fenidre =当時の文学上のやりとりでは、単に「偽る」という意味ではなく、むしろ「創造する」ことを示すのに使用。この創造の所産が「フィクション」。

デーヴィスは、16世紀の民衆がどんな風に物語(ストーリー)を語ったか、彼らはどいうものをよい話(ストーリー)と考えたのか、彼らは動機をどう説明したのか、彼らは物語(ナラティヴ)を通して、いかに不測の事態に説明をほどこし、実体験と折り合いをつけさせたのか、を明らかにする。彼らの物語が語り手と聴き手次第でどのように変容したか、またこれら暴力行為と恩赦からなる裁判話における筋(プロット)の規則が、どんな風に、説明づけ、描写、評価に関する当時のより広範な習慣と互いに影響しあっていたのかを見る。


この「物語を仕立てる技術」という視点は実は現代の歴史学徒も何がしか経験しているものですよね。例えば、各種奨学金しかり、学振しかり、そして科研費しかり。お金を「嘆願」してるわけですな。
実は「文書」と呼ばれるもので、今でも我々はある「物語」を組み立て続けているということになるわけで。


ちなみに恩赦嘆願状を扱う理由は何か?それは16世紀フランスの下層階級の人間が語った比較的首尾一貫した物語の最良の宝庫であるということ。公証人が聴取する相手にずっと多くの余地を与える文書。
恩赦とは何の罪に対して適用されるかと言えば、殺人罪。つまり恩赦嘆願状とは、まさに死刑にされんとする者が国王の慈悲にすがった命の瀬戸際をめぐるドラマが圧縮されている文書。


詳しい内容ははしょりますが、嘆願の「物語」において、身分、性差の特徴があるとか、どういったコンテクストに自身の罪を位置づけるか、それなりの「コード」がある。
無学な者ですら、物語る技術を充分持っていたということ。誰もが語りの才能を持ちえた。


紹介する余裕はないですが、引用された嘆願状の内容もその辺の物語読むより断然面白いし、デーヴィスの読み込み方もまた面白い。この人の物語り方自体が巧み。